第2話 最後のキスは、苦かった
莉子の一言で、美緒は十年前の恋を思い出します。
好きだったのに、言えなかった言葉。
応援したかったのに、引き止めたかった気持ち。
そして、最後のキス。
美緒と悠真がなぜ別れたのか。
二人の過去が少しずつ明かされます。
莉子の言葉は、春の午後の静けさをまっすぐに裂いた。
「この人が、ママが言ってた美緒さん?」
その問いに、悠真はすぐには答えなかった。
美緒も動けなかった。
常連のおじいさんは眠ったままだったし、奥の大学生はイヤホンをして画面に向かっている。誰もこちらを見ていない。けれど美緒には、店じゅうの空気が自分たちの沈黙を聞いているように感じられた。
悠真は、ゆっくりとカップを置いた。
「莉子」
名前を呼ぶ声は、叱るというより困っていた。
莉子は首を傾げる。
「違うの?」
「違わない」
悠真は、短く言った。
美緒の心臓が、ひとつ大きく鳴った。
違わない。
その言葉は、十年分の距離を無理やり引き寄せるようだった。
悠真は美緒を見た。
「……ごめん。急に」
「ううん」
美緒は、笑おうとした。
けれど、うまく笑えた自信はなかった。
「子どもって、正直だから」
そう言った自分の声が、どこか他人のものみたいに聞こえた。
莉子はしばらく美緒を見てから、またホットミルクに口をつけた。悪いことを言ったという自覚は、たぶんなかった。ただ、知りたいことを聞いただけなのだ。
ママが言ってた美緒さん。
その言葉が、美緒の胸に残った。
悠真の妻は、美緒のことを知っていた。
しかも、娘に話していた。
どうして。
何を。
どんなふうに。
美緒はカウンターに戻り、洗い終えたグラスをまた手に取った。
布巾で拭く。
同じところばかり、何度も拭いてしまう。
十年前、美緒は二十二歳だった。
悠真は二十五歳。大学院を出て、建築事務所に入って二年目。いつも寝不足で、図面の匂いとコーヒーの匂いをまとっていた。
二人が出会ったのは、駅前の古い喫茶店だった。
美緒は当時、母が営んでいた小さな店を手伝いながら、昼は別の仕事もしていた。父は美緒が高校生の時に亡くなり、母はその後、無理を重ねて体を悪くした。それでも店だけは閉めたくないと言い張っていた。
悠真はその喫茶店の常連だった。
いつも窓際の席で、スケッチブックを開いていた。最初は無愛想な人だと思った。注文はいつもコーヒーだけ。長居するのに、話しかけてくるわけでもない。
でもある日、雨漏りしていた店の天井を見上げて、彼が言った。
「ここ、梁はまだ生きてると思います」
いきなりそんなことを言われて、美緒は戸惑った。
「梁?」
「建物の骨です。表面は古いけど、ちゃんと直せば、まだ使える」
それが最初の会話だった。
悠真は、古い建物が好きだった。
壊して新しくするより、残せるものを残しながら、今の生活に合うように直す方が好きだと言っていた。
「人も店も、たぶん同じです。傷んだところがあるからって、全部捨てなくていい」
その言葉を、美緒はなぜか忘れられなかった。
母の店は、父との思い出が詰まった場所だった。
でも経営は苦しく、母の体も限界に近かった。美緒は、店を守りたい気持ちと、もう終わらせた方がいいのではないかという気持ちの間で揺れていた。
そんな時に悠真と話すようになった。
最初は建物の話。
次にコーヒーの話。
それから、好きな映画、行ってみたい街、子どもの頃の夢。
悠真は口数が多い人ではなかった。けれど、美緒の話を途中で遮らなかった。結論を急がなかった。沈黙を怖がらない人だった。
一緒にいると、心が少しだけ静かになった。
恋人になるまで、時間はかからなかった。
店が閉まった後、二人で駅まで歩いた。寒い夜には、悠真が自分のマフラーを何も言わずに美緒の首に巻いた。美緒が「自分が寒いでしょ」と返そうとすると、彼は「俺は歩くから」と言った。
不器用で、優しくて、未来の話になると少しだけ目を輝かせる人だった。
その未来に、美緒もいるのだと、どこかで信じていた。
でも、現実はそんなに単純ではなかった。
悠真に、海外の建築プロジェクトに参加する話が来た。
期間は未定。最低でも三年。長ければ五年。
彼にとって、夢のような話だった。
美緒は、嬉しかった。
本当に嬉しかった。
悠真がずっとやりたがっていた仕事だったから。
けれど、その頃、母の病状は悪化していた。店も借金を抱えていた。美緒は日本を離れられなかった。離れたいとも言えなかった。
悠真は一度だけ言った。
「一緒に来るか」
けれど、その声には迷いがあった。
美緒の事情を知っているから。
美緒が母を置いていけないことを知っているから。
だから美緒は笑った。
「無理だよ」
軽く言ったつもりだった。
でも、言葉にした瞬間、二人の間に何かが落ちた。
それから少しずつ、会話が減った。
好きなのに、会うたびに苦しくなった。
悠真の夢を応援したい。
でも、行かないでほしい。
美緒のそばにいてほしい。
でも、彼の未来を自分の寂しさで縛りたくない。
十年前の美緒は、自分の本音をうまく扱えなかった。
悠真も同じだったのだと思う。
最後の日は、冬の終わりだった。
駅前には冷たい風が吹いていた。悠真の出発まで、あと一週間。二人はいつものように喫茶店で会い、いつものように駅まで歩いた。
でも、その日はどちらもほとんど話さなかった。
改札の前で、悠真が立ち止まった。
「美緒」
「うん」
「俺、行く」
「うん」
美緒は頷いた。
頷くしかなかった。
悠真は何かを言おうとして、やめた。
その目を見て、美緒は思った。
きっと、私に何か言わせようとしている。
待ってると言えばよかったのかもしれない。
行かないでと言えばよかったのかもしれない。
一緒に行けないけど、それでも好きだと言えばよかったのかもしれない。
でも、言えなかった。
言えば、悠真が迷うと思った。
彼の足を止めてしまうと思った。
だから美緒は笑った。
「頑張ってね」
悠真の顔が、少しだけ歪んだ。
「……ああ」
彼は美緒に近づき、最後にキスをした。
苦かった。
コーヒーと、冬の夜と、言えなかった言葉の味がした。
それが、最後だった。
それから十年。
美緒は母を看取り、店を閉め、新しくこのカフェを開いた。恋も、何度かしようとした。優しい人と食事に行ったこともある。告白されたこともある。
でも、どこかで比べてしまった。
悠真とではない。
悠真に恋をしていた自分と、今の自分を。
あの時ほど誰かを好きになれる気がしなかった。
だから、美緒はいつの間にか恋から少し離れて生きるようになった。
それでも平気だった。
平気なはずだった。
ドアベルが鳴り、常連のおじいさんが目を覚まして会計を済ませて帰っていった。大学生も席を立った。店内には、美緒と悠真と莉子だけになった。
悠真はコーヒーを飲み終えていた。
莉子のホットミルクも、マグカップの底に少し残っているだけだった。
美緒は伝票を持って席へ向かった。
「今日は、来てくれてありがとう」
言ってから、客に向ける言葉としては少し変だと思った。
悠真は財布を出しながら言った。
「店、いい場所だな」
「ありがとう」
「美緒らしい」
「どこが?」
尋ねると、悠真は少しだけ店内を見回した。
「ひとりで来た人を、ひとりにしたまま守ってくれるところ」
胸が、静かに揺れた。
この人は昔からそうだった。
誰も気づかないようなところを、まっすぐ見つけてしまう。
美緒は、レジの画面に視線を落とした。
「……そういうこと、さらっと言わないで」
「さらっとは言ってない」
「じゃあ、余計に困る」
会計の時、美緒がレシートを渡そうとすると、また指先が触れた。
今度は、美緒の方が先に引こうとした。
でも、悠真が小さく言った。
「髪、少し伸びたな」
美緒は目を上げた。
「十年ぶりに会って、最初にそこ?」
「最初に思ったのは、変わってない、だった」
悠真は少しだけ目を伏せた。
「でも、それを言ったら、困らせると思った」
困る。
確かに困る。
そんなことを言われたら、胸の奥にしまっていたものが、また勝手に動き出してしまう。
「……困ってるよ、もう」
「悪い」
「謝るくらいなら、言わないで」
「それも、もう下手になった」
「何が?」
「言わないでいること」
美緒は息を止めた。
ずるい。
そんな言い方をされたら、怒れない。
美緒は視線を逸らし、レシートを差し出した。
悠真はそれを受け取りながら、少しだけ視線を落とした。
「ここなら、莉子が少し息をしやすい気がしたんだ」
美緒は顔を上げた。
「莉子ちゃんが?」
「ああ」
悠真はそれ以上を言わなかった。
けれど、その横顔に、ただ懐かしくて来たわけではないことが滲んでいた。
莉子は店を出る前に、もう一度美緒を見た。
「ホットミルク、おいしかった」
「ありがとう。また飲みに来てね」
そう言うと、莉子は小さく頷いた。
悠真がドアに手をかける。
そこで、ふいに振り返った。
「美緒」
「何?」
悠真は一瞬だけ迷った。
十年前と同じ迷い方だった。
そして言った。
「あの日、俺は君に渡すつもりのものがあった」
美緒の息が止まった。
悠真は左手で、コートの内ポケットを押さえた。
そこに、まだ十年前が残っているみたいに。
それ以上何も言わず、悠真は莉子の手を引いて店を出ていった。
ドアベルの音が、十年前の改札の音と重なった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
十年前、美緒と悠真は嫌いになって別れたわけではありませんでした。
大切だからこそ言えなかったこと。
相手の未来を思うあまり、自分の本音を飲み込んでしまったこと。
そして悠真が最後に残した、
「あの日、俺は君に渡すつもりのものがあった」
という言葉。
十年前、悠真は美緒に何を渡そうとしていたのか。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




