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最後のキスを忘れられないまま、あなたの娘に出会いました 〜十年越しの恋と、母を失った女の子のホットミルク〜  作者: ちょこまろ


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第1話 十年ぶりに来た人

十年前、さよならも言えないまま別れた恋人がいました。


小さなカフェを営む美緒の前に現れたのは、忘れられなかった元恋人。

そして、彼の隣には小さな女の子がいました。


大人の再会恋愛です。

少し切なく、でも最後はあたたかい物語になる予定です。


よろしくお願いします。

 十年ぶりに再会した元恋人は、娘を連れて私の店に来た。


 しかもその子は、ホットミルクを一口飲んだあと、私の名前を知っているような目でこちらを見た。


 その瞬間、私は十年前の最後のキスを思い出した。


 苦くて、冷たくて、どうしようもなく優しかった、あの夜のことを。



 午後三時のカフェは、一日の中でいちばん静かになる。


 ランチの慌ただしさが過ぎ、夕方の来客にはまだ少し早い。窓際の席には、読みかけの文庫本を伏せたまま眠っている常連のおじいさんがひとり。奥の席では、大学生らしい女の子がイヤホンを片方だけ外して、ノートパソコンの画面を見つめている。


 白石美緒は、カウンターの中で洗い終えたグラスを布巾で拭いていた。


 春先の陽射しは、店の窓から斜めに入り込んで、木目の床に薄い金色の帯を作っている。開店して七年目になる小さなカフェ「ミモザ」は、大通りから一本入った場所にある。


 駅前ほど騒がしくはない。


 けれど、商店街から少し歩けば見つかる場所だった。


 誰かの人生を大きく変えるほどの力はない。


 けれど、少し疲れた人が、ほんの十五分だけ息をつける場所にはなれる。


 美緒は、そういう店が好きだった。


 ドアベルが鳴った。


 からん、と小さな音がして、美緒はいつものように顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


 そう言いかけた声が、喉の奥で止まった。


 入ってきた男の人は、黒いコートの襟を少しだけ立てていた。背が高く、肩幅があって、昔よりも頬の線が少しだけ鋭くなっている。目元には、十年前にはなかった疲れがうっすらと滲んでいた。


 でも、わかった。


 一瞬で、わかった。


 神崎悠真だった。


 十年前、美緒が最後にキスをした人。


 十年前、美緒が「さよなら」を言えなかった人。


 その人が、今、美緒の店に立っていた。


「……美緒」


 彼が名前を呼んだ。


 その声だけで、胸の奥の古い箱が開いた。


 しまい込んだはずの記憶が、音もなくこぼれ落ちる。雨上がりの駅前。濡れたアスファルト。冬の終わりの冷たい風。彼の指先の温度。最後に触れた唇。


 十年経ったのに、体はまだ覚えていた。


「……悠真」


 名前を呼び返すまでに、ずいぶん時間がかかった気がした。


 悠真の隣には、小さな女の子が立っていた。


 七歳くらいだろうか。肩につく長さの黒髪を、片側だけ小さなピンで留めている。淡い水色のコートの袖から、細い手が少しだけ出ていた。


 女の子は悠真のコートの裾を握ったまま、無表情に店内を見回している。


 悠真の娘。


 考えるより先に、胸がそう理解した。


 似ていた。


 目元が、とてもよく似ていた。


 美緒はグラスを置き、濡れた指先をエプロンでそっと拭いた。


「……久しぶり」


「ああ。久しぶり」


 その言葉だけで、十年分の空白をどうにか埋めようとしているみたいだった。


 けれど、埋まるはずがない。


 十年という時間は、短い挨拶で渡れる距離ではなかった。


「座って。好きなところで」


 美緒は、できるだけ普通の声を出した。


 普通に。


 普通にしなければ。


 昔の恋人が、娘を連れて自分の店に来ただけ。


 ただ、それだけ。


 そう思おうとした。


 悠真は窓際の二人席に向かった。女の子は黙ってついていき、椅子に座ると、膝の上で両手をきゅっと握った。


 美緒は水を二つ運んだ。


「ご注文は?」


 悠真はメニューを見ずに言った。


「コーヒー。ホットで」


 変わっていない。


 昔から、彼はコーヒーをほとんど砂糖もミルクも入れずに飲んでいた。美緒が「苦くないの?」と聞くと、「苦いから飲むんだよ」と笑っていた。その笑い方が、好きだった。


「ブラックでよかったよね」


 言ってから、美緒はしまったと思った。


 十年前の癖を、まだ覚えていたことがばれてしまった。


 悠真は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。


「覚えてたんだ」


「……常連さんの注文は覚える方なの」


「俺、まだ常連じゃないけど」


「今日からなるかもしれないでしょ」


 苦しまぎれに返すと、悠真は少しだけ目を細めた。


「じゃあ、また頼めるな」


 そのくらいの言い方なのに、胸が不意に跳ねた。


 十年前よりも低くなった声で、そんなふうに言わないでほしかった。


 美緒はメニューに視線を落とした。


「そちらは?」


 女の子に視線を向けると、女の子は少しだけ肩をこわばらせた。


 悠真が代わりに言った。


「莉子。何にする?」


 莉子。


 名前を聞いた瞬間、美緒の胸に小さな痛みが走った。


 悠真には、子どもがいる。


 当たり前のことなのに、目の前で名前を呼ばれると、現実の重さが違った。


 莉子はメニューを見つめたまま、何も言わない。


「ホットミルクなら、甘さ控えめにもできるよ」


 美緒が言うと、莉子はほんの少しだけ顔を上げた。


「……熱くない?」


「熱すぎないようにする。マグカップも、手で持てるくらいにしておくね」


 莉子は、悠真の顔を見た。


 悠真が小さく頷く。


「じゃあ……それ」


「うん。ホットミルクね」


 美緒はカウンターへ戻った。


 コーヒーを淹れる手順は、何百回も繰り返してきた。豆を挽き、ペーパーをセットし、湯を落とす。けれど今日は、手元が少しだけ心許なかった。


 悠真がいる。


 十年前に別れたはずの人が、あの席にいる。


 そして、その隣には娘がいる。


 美緒は深く息を吸った。


 動揺している場合ではない。


 ここは自分の店だ。


 自分の場所だ。


 美緒は、ホットミルクを小鍋で温めた。ほんの少しだけ蜂蜜を溶かす。上に小さな泡を浮かべる。莉子のマグカップには、店でいちばん軽いものを選んだ。


 トレーに乗せて席へ運ぶ。


 コーヒーカップを置こうとした時、悠真の手が少しだけ伸びた。


 指先が触れた。


 ほんの一瞬だった。


 それなのに、美緒の胸は十年前みたいに跳ねた。


「……ごめん」


 悠真が言った。


「ううん」


 美緒はすぐに手を引いた。


 けれど、触れた場所だけが熱を持っていた。


 悠真も、すぐには視線を外さなかった。


 たったそれだけの沈黙に、十年分の言えなかった言葉が滲んでいた。


 莉子はマグカップを両手で包むように持った。美緒が言った通り、熱すぎないのを確かめるように、指先で何度か触れてから、ゆっくり口をつける。


 そして、ほんのわずかに目を丸くした。


「甘い」


「少しだけ蜂蜜を入れたの。苦手だった?」


 莉子は首を横に振った。


「……苦手じゃない」


 その声は小さかったが、嘘ではなさそうだった。


 美緒は微笑んだ。


「よかった」


 その瞬間、悠真が美緒を見ていた。


 十年前と同じ目だった。


 何か言いたいのに、言わない目。


 相手のことを考えすぎて、自分の言葉を飲み込んでしまう目。


 美緒はそれに気づいて、すぐに視線を逸らした。


「ゆっくりしていって」


 そう言って、カウンターへ戻ろうとした時だった。


 莉子が、ぽつりと言った。


「お父さん」


「ん?」


 悠真が顔を向ける。


 莉子はマグカップを両手で持ったまま、美緒をじっと見ていた。


 その瞳は、子どもらしい遠慮のなさと、子どもらしくない寂しさを同時に宿していた。


 そして、静かに尋ねた。


「この人が、ママが言ってた美緒さん?」


 美緒は、その場で息を止めた。


 悠真も、何も言わなかった。


 カフェの中で、コーヒーの香りだけが、ゆっくりと立ちのぼっていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


十年ぶりに再会した美緒と悠真。

けれど、悠真の隣には娘の莉子がいました。


そして莉子が口にした、

「この人が、ママが言ってた美緒さん?」


この一言が、美緒の止まっていた時間を大きく動かしていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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