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最後のキスを忘れられないまま、あなたの娘に出会いました 〜十年越しの恋と、母を失った女の子のホットミルク〜  作者: ちょこまろ


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第5話 渡せなかった指輪

十年前、悠真が美緒に渡すつもりだったもの。


ずっと言えなかった本音。

渡せなかった約束。

そして、別れの日に飲み込んだ言葉。


美緒と悠真の過去に残された答えが、ようやく明かされます。

 君を忘れたことはない。


 でも、妻を愛していなかったわけじゃない。


 その言葉を聞いた夜、美緒は久しぶりに泣いた。


 声を出して泣いたわけではない。


 部屋の明かりを消し、ベッドに横になり、天井の暗がりを見つめているうちに、涙が勝手にこぼれてきただけだった。


 何に泣いているのか、自分でもわからなかった。


 十年前の自分が報われたような気がしたからか。


 それとも、もう取り戻せない時間を突きつけられたからか。


 悠真が妻を愛していたことに安心したからか。


 その事実に、ほんの少しだけ傷ついた自分が嫌だったからか。


 全部だった。


 全部が胸の中で混ざって、どうにもならなかった。


 翌朝、鏡の中の自分は少し目が腫れていた。


 三十二歳。


 若くないわけではない。


 でも、十年前のように、好きという気持ちだけで未来を信じられる年齢でもなくなっていた。


 美緒は顔を洗い、いつも通り店を開けた。


 生活は続く。


 恋が揺れても、過去が戻ってきても、コーヒー豆は挽かなければならないし、開店時間にはドアを開けなければならない。


 それが救いだった。


 その週、悠真と莉子は二度店に来た。


 莉子は少しずつ美緒に慣れていった。ホットミルクに蜂蜜を入れる量を自分で指定するようになり、フレンチトーストには粉砂糖ではなくシナモンを少しかけるのが好きだと判明した。


 声を出して笑うことはまだなかった。


 でも、口元がほんの少し緩む瞬間があった。


 それだけで悠真は泣きそうな顔をした。


 美緒は、その顔を見るたびに胸が痛んだ。


 ある雨の日の夕方、莉子が店の奥の小さな本棚から絵本を選んでいる間、悠真がカウンターに座った。


 客は少なかった。


 雨音が窓を柔らかく叩いていた。


「美緒」


「うん?」


「この前の話の続き、してもいいか」


 美緒は手を止めた。


 渡すつもりのもの。


 それについてだと、すぐにわかった。


「聞かない方がいい気もする」


「そうかもしれない」


「でも、聞かなかったら、ずっと考えると思う」


 悠真は小さく頷いた。


 そして、コートの内ポケットから古い封筒を取り出した。


 封筒は少し黄ばんでいた。


 角が擦れている。


 長い間、どこかにしまわれていたものだとわかった。


「何?」


「十年前、君に渡すつもりだった」


 美緒は封筒を見つめた。


「手紙?」


「手紙と……もうひとつ」


 悠真は封筒を開けた。


 中から、小さな紙箱が出てきた。


 美緒は呼吸を忘れた。


 指輪だった。


 箱の中に、細い銀色の指輪が入っていた。


 派手ではない。小さな石がひとつだけついた、控えめな指輪。十年前の悠真が選びそうなものだった。


「……なんで」


 声が震えた。


「出発する前に、渡すつもりだった」


「なんで、渡さなかったの」


 責めるつもりはなかった。


 でも、責めるような声になってしまった。


 悠真は指輪を見つめたまま言った。


「君が、頑張ってねって言ったから」


 美緒は唇を噛んだ。


「あの時、君は笑ってた。でも、目が泣いてた」


「……」


「俺がこれを渡したら、君は待つと言うと思った。母親のことも、店のことも、自分の人生も全部抱えたまま、俺を待つと言うと思った」


「そんなの、わからないじゃない」


「わからなかった。でも、怖かった」


 悠真の声も震えていた。


「君を縛るのが怖かった。俺の夢のために、君の時間を止めるのが怖かった」


「勝手だよ」


「ああ」


「勝手に決めないでよ」


「ああ」


「待つかどうかは、私が決めることだった」


「本当に、その通りだ」


 悠真は否定しなかった。


 だから余計に、美緒は苦しくなった。


 怒りをぶつける場所がない。


 十年前の悠真も、十年前の美緒も、不器用で、相手を思いやっているつもりで、自分の本音を隠した。


 その結果、二人は離れた。


 誰かひとりが悪かったわけではない。


 それがいちばん、やりきれなかった。


「私も、言えなかった」


 美緒は言った。


「行かないでって。待ってるって。一緒に行けないけど、それでも好きだって。どれかひとつでも言えばよかったのに、言えなかった」


 悠真は美緒を見た。


「美緒」


「悠真の夢を邪魔したくなかった。でも本当は、邪魔したくなるくらい好きだった」


 言った瞬間、涙がこぼれた。


 十年遅れの本音だった。


 悠真の顔が歪んだ。


「……ごめん」


「謝らないで」


「でも」


「謝られたら、あの頃の私がかわいそうになる」


 美緒は涙を拭いた。


「私たちは、好きだったんだよ。ちゃんと。下手だっただけで」


 悠真は何も言わなかった。


 雨音が続いていた。


 莉子は奥の本棚の前で、まだ絵本を選んでいる。こちらの話は聞こえていないようだった。


 美緒は指輪を見た。


「これ、ずっと持ってたの?」


「ああ」


「奥さんは知ってた?」


「知ってた」


 美緒は目を上げた。


「彩乃には、結婚する前に話した。昔、渡せなかった指輪があるって」


「……奥さん、何て?」


 悠真は少しだけ目を細めた。


「捨てられないなら、捨てなくていいって言った」


 美緒の胸が震えた。


「すごい人だね」


「ああ。強い人だった」


「私は、その人に勝てない」


 思わず出た言葉だった。


 悠真はすぐに首を横に振った。


「勝つとかじゃない」


「わかってる。でも、そう思ってしまう自分がいる」


 美緒は笑った。


 情けない笑いだった。


「亡くなった人に嫉妬するなんて、嫌な女だよね」


「嫌な女じゃない」


「どうしてわかるの」


「君が嫌な女なら、そんなことで苦しまない」


 その言葉に、美緒はまた泣きそうになった。


 悠真は指輪の箱を閉じた。


「これを今、君に渡そうと思って来たわけじゃない」


「うん」


「過去をやり直したいわけでもない」


「うん」


「でも、あの日、俺が何を言えなかったのかだけは、君に知ってほしかった」


 美緒は頷いた。


 知りたかった。


 でも、知ってしまったら、余計に苦しかった。


 十年前にもし渡されていたら。


 もし美緒が待つと言っていたら。


 もし悠真が連れて行きたいと言い切っていたら。


 その先に、今とは違う人生があったのだろうか。


 でも、その違う人生には莉子はいない。


 彩乃もいない。


 そう思った瞬間、美緒は胸を押さえた。


 どの未来が正しかったのかなんて、誰にも言えない。


 悠真は静かに言った。


「過去に戻りたいわけじゃない」


 美緒は彼を見た。


 悠真の目は、深い後悔と、それでも前を向こうとする痛みで揺れていた。


「だけど、君のいない未来を選べるほど、俺は強くなかった」


 美緒は、返す言葉を失った。


 その時、奥から莉子の声がした。


「お父さん」


 二人は同時に振り返った。


 莉子が、絵本を一冊抱えて立っていた。


 その視線は、悠真の手元の小さな箱に向いていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


十年前、悠真が美緒に渡すつもりだったもの。

それは、指輪でした。


好きだったのに、言えなかった。

待つかどうかを決めることさえできなかった。

美緒と悠真は、十年越しにようやくあの日の本音と向き合います。


けれど、その指輪の箱を莉子が見てしまいました。


美緒、悠真、莉子。

そして亡き妻・彩乃。


それぞれの想いが、次回さらに大きく動いていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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