第95話 星海接続孔跡域へ ― 退路なき針路
帝都の喧騒から遠く離れた深宙で、〈みらい〉は静かに進路計算を続けていた。
星海接続孔跡域。
かつてこの世界と別位相を繋いだ巨大構造体が消滅し、その痕跡だけが重力の歪みとして残る禁域。
航行困難区域。
観測不能区域。
そして今、未知信号の発生源。
ユイが艦橋へ報告する。
『跡域内部、重力層不安定。通常艦の進入成功確率三%未満』
ハルト少将が低く息を吐く。
「三%か。悪くないな」
レイリアが即座に返す。
「悪いです」
その声音は真剣だった。
「国家に敵視され、補給線は細り、味方も揺らいでいる中で、三%に賭けるのは合理的ではありません」
合理的ではない。
だが。
ユイが続ける。
『未知信号強度、増大中。橘遼関連コード一致率、九八・四%』
艦橋の空気が変わる。
数値は、感情を揺らす。
「艦長が、いる」
誰かが呟いた。
行方不明から、生存確率は常に低く表示されていた。
それが今、ほぼ確信に近い数値へ跳ね上がる。
ハルト少将が腕を組む。
「世論は揺れている。中央は制圧艦隊準備を始めた。いずれ包囲される」
レイリアが続ける。
「このまま深宙を漂えば、消耗戦です」
『はい』
ユイの声は静かだ。
『跡域進入は高危険』
『だが同時に、高唯一性』
唯一。
それは戦略的価値を意味する。
跡域は誰も掌握していない。
国家も。
宗教院も。
第三勢力も。
そこに先に辿り着いた者が、物語を握る。
レイリアがゆっくり言う。
「逃げ続ける船は象徴になれない」
それは政治の言葉だった。
「私たちは今や、軍艦ではなく旗印です。ならば、最も危険な場所に立つしかない」
沈黙。
判断は重い。
ユイが演算を終える。
『跡域内部、重力逆層を利用可能』
『本艦の浮遊航行能力と地底航行制御を併用すれば、三%は二八%まで上昇』
数値が跳ね上がる。
それでも成功率は三割未満。
ハルト少将が小さく笑う。
「二八%。賭けとしては悪くない」
決定は、静かに下された。
「針路、星海接続孔跡域」
声は震えていない。
〈みらい〉の主機が低く唸る。
推進光が変質する。
通常空間から、歪みの縁へ。
同時刻。
帝国中央軍務院。
「目標艦、進路変更」
「どこへ向かう」
「星海接続孔跡域です」
室内が凍る。
「自殺行為だ」
ヴァルツ将軍が呟く。
だがその目は鋭い。
「いや」
彼は理解する。
「象徴を取りに行ったな」
強硬派は即断する。
「追撃は」
「通常艦では困難」
「ならば先回りしろ。外縁を封鎖せよ」
制圧艦隊が動き始める。
深宙。
跡域外縁。
星が歪む。
光が曲がる。
空間が折り畳まれたように揺らぐ。
艦内。
警報が低く鳴る。
『重力逆転層接近』
『外部観測精度低下』
窓の外、宇宙は静かな嵐。
そして。
未知信号が、明確なパルスへ変わる。
一回。
二回。
三回。
それは偶然ではない。
『橘遼音声特徴量一致、九六%』
音。
微弱だが、確かに音。
レイリアが息を呑む。
「再生」
ノイズ。
重力歪み。
断片。
そして、かすれた声。
『……航路、固定するな』
短い。
だが、それだけで十分だった。
ユイの演算が一瞬停止する。
『艦長』
その呼称に、微細な揺らぎが混じる。
重力逆層が開く。
闇の裂け目のように。
〈みらい〉は減速せず、進む。
国家に追われながら。
世論に揺られながら。
それでも。
逃走ではない。
選択だ。
背後、遠方。
制圧艦隊の航跡光が点灯する。
追撃は始まっている。
星海接続孔跡域。
その中心に、何かが待っている。
人か。
罠か。
未来か。
〈みらい〉は、歪んだ星海へ突入した。
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