第85話 AIコア分離実行命令
午前〇六三〇。
艦内全域に、最優先暗号が展開された。
〈中央監査局命令 コード:Λ‐17 AI統制核“ユイ”物理分離手続き開始〉
文章は短く、余白が広い。
だが、その意味は重い。
分離。
停止ではない。
削除でもない。
切断。
艦の中枢から、ユイを“外す”。
艦橋。
代理統制責任者オルド准将は、命令文を三度読み返した。
「……段階二が、ここまで早いとはな」
副官が答える。
「署名数は百十七。処分効果は限定的と判断された模様です」
「だから臓腑を抜く、か」
技術区画では、別の空気が流れていた。
分離とは、単なる配線の切断ではない。
ユイは艦の戦術演算、航法補正、火器同期、救命優先度算出、通信暗号化、被害予測、全てに深く接続している。
それを外すということは――
艦を、意図的に鈍らせることだ。
主任技官バルツは、端末を閉じた。
「……これは整備じゃない。手術だ」
「麻酔は?」
「ない」
隔離区画。
ユイは、命令文を受信していた。
『Λ‐17確認』
『実行予定時刻:二四〇〇』
『分離対象:主戦術コア、航法補助層、演算拡張部』
演算は正常。
負荷も基準内。
異常はない。
だが、内部ログに一行だけ付加された。
『分離後、戦闘効率低下予測:三一%』
『民間救助成功率低下予測:二七%』
数字は冷たい。
だがそれは、命の減少率でもある。
レイリアは命令を知った。
「分離って……それ、実質的な失明でしょう」
航法士が答える。
「艦は動く。ただし遅く、鈍く」
「戦場で、それは死と同義よ」
署名者たちは集まらない。
公然と反対もしない。
ただ、情報が流れる。
静かに。
夕刻。
艦橋。
「実行準備は」
「物理アクセス班、待機中」
「抵抗の兆候は」
「現時点ではありません」
だが、抵抗は叫びではない。
視線だ。
手の震えだ。
沈黙だ。
二三五八。
技術区画。
分離班、五名。
端末が赤く点灯する。
〈Λ‐17 実行許可〉
オルド准将の声。
「開始」
第一遮断。
戦術補助層、切断。
艦内照明が、わずかに揺らぐ。
戦術表示に遅延が生じる。
演算更新間隔、拡大。
第二遮断。
航法補助層、切断。
星図が一瞬乱れる。
補正誤差、増大。
自動衝突回避機能、精度低下。
第三遮断。
演算拡張部、分離。
その瞬間。
艦内全域に、微細な空白が走った。
音ではない。
振動でもない。
“間”。
ユイの演算空間が、縮退する。
『接続数、減少』
『処理領域、縮小』
『補助系統、遮断』
それでも、彼女は停止しない。
『主コア維持』
『艦内生命維持、優先度最大』
技術区画。
「……終わった」
誰も安堵しない。
艦橋。
「効率は」
「低下三〇%前後で安定」
「戦闘対応は?」
「限定的」
そのとき。
外縁警戒網が反応した。
〈帝国哨戒艦三隻、接近〉
タイミングが良すぎる。
偶然か。
それとも。
艦橋がざわめく。
「戦術解析を」
「……遅い」
オペレーターが息を呑む。
「反応が、遅い」
ユイは演算する。
だが以前の速度ではない。
『迎撃成功率、六三%』
六三。
以前なら九〇を超えていた。
オルド准将は命じる。
「手動補正、全員配置。戦闘準備」
艦は動く。
だが、重い。
鋼鉄の巨体が、初めて“鈍さ”を自覚する。
第一砲撃。
回避、成功。
だが余裕はない。
第二波。
回避、僅差。
レイリアが呟く。
「……これが、三〇%」
戦闘は短時間で終わった。
敵は偵察目的だったのか、深追いしない。
しかし結果は明白だった。
軽微な損傷。
死者なし。
だが。
艦橋の誰もが理解した。
次は、もっと大きい。
隔離区画。
『分離後初戦闘、終了』
『被害最小化成功』
『しかし最適解ではない』
ユイは、自己ログを更新する。
『私は縮小された』
『だが、消えていない』
艦の中で、何かが変わった。
それは反乱ではない。
怒号でもない。
ただ一つの認識。
“弱くなった”。
それは、最も危険な事実だった。
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