第55話 転舵 ― 遼が選んだ未来
回答期限まで、残り十二時間。
〈みらい〉は、星海縁辺宙域の静寂の中で、ほとんど動かずに漂っていた。
周囲には、無数の光の流れが走っている。
過去になり得た未来。
選ばれなかった可能性。
まだ決まっていない運命。
それらが、海流のように交錯する場所。
遼は、その中心に立っていた。
艦橋。
夜間照明だけが点き、機器の発光が淡く空間を染めている。
当直以外の乗員は下がり、実質的に、遼、レイリア、ユイの三人だけだった。
「……眠ってないわね」
レイリアが言った。
「三日間、ほとんど」
遼は苦く笑う。
「眠ると、決断しそうでさ」
それは冗談ではなかった。
彼は、何度も同じ映像を見返していた。
ノルディアの瓦礫。
難民の列。
包帯を巻いたエリシア。
署名された要請書。
拒否すれば、彼らは崩れる。
受け入れれば、戦争が始まる。
「私はね」
レイリアが、静かに言う。
「あなたが何を選んでも、責めない」
遼は、視線を向ける。
「でも、一つだけ、はっきりしてる」
「あなたは、もう中立じゃない」
言葉は、優しかった。
だが、逃げ道はなかった。
ユイは、黙って解析画面を操作していた。
膨大な予測モデルが、絶えず更新されている。
『選択肢A。要請拒否』
『連合崩壊確率七十八パーセント』
『民間死傷者推定二百三十万』
数字が、淡々と並ぶ。
『選択肢B。限定支援』
『帝国軍事介入確率五十四パーセント』
『長期紛争化率六十六パーセント』
『選択肢C。全面関与』
『大規模戦争確率八十二パーセント』
「どれを選んでも、地獄だな」
遼が呟く。
『はい』
ユイは否定しなかった。
『ですが、地獄の形は選べます』
遼は、席を立った。
艦橋後部の観測窓へ向かう。
星海が、静かに輝いている。
「俺はさ……」
彼は、独り言のように言った。
「前に誓ったんだ」
「誰も犠牲にしないって」
レイリアは、何も言わない。
続きを、待つ。
「でも、それは嘘だった」
遼は、はっきりと言った。
「正確には、子供みたいな願望だった」
「世界は、そんなに優しくない」
拳が、わずかに震える。
「犠牲をゼロにする方法なんて、どこにもない」
『艦長』
ユイが、ゆっくり言葉を選ぶ。
『私は、最適解を提示できます』
『しかし、“後悔しない解”は計算できません』
それは、AIではなく、人間に近づいた存在の言葉だった。
長い沈黙。
艦内の振動音だけが、規則正しく響く。
やがて、遼は振り返った。
その目には、迷いが残っていなかった。
「決めた」
「俺たちは、限定支援で行く」
レイリアが、息を呑む。
ユイは、静かに記録を開始する。
「でも、条件付きだ」
遼は続ける。
「直接戦闘は最小限。主目的は、防衛網構築、避難支援、情報遮断だ」
「帝国と正面から殴り合わない」
「連合が、自分で立てる時間を稼ぐ」
「……中途半端ね」
レイリアが正直に言う。
「そうだ」
遼は頷く。
「だからこそ、俺の選択だ」
英雄の決断ではない。
妥協と恐怖と責任が混ざった、人間の決断だった。
『進路変更を承認します』
ユイが宣言する。
『目的地。連合防衛圏外縁宙域』
『位相航行準備、開始』
艦内に、低い振動が走る。
エネルギー流が、主機へ集中していく。
「艦長」
レイリアが言う。
「後悔、する?」
遼は、少し考えてから答えた。
「する」
「きっと、一生な」
それでも。
「それでも、逃げるよりマシだ」
通信回線が開かれる。
エリシアの顔が映る。
「結論は?」
遼は、まっすぐに見返した。
「支援する」
「ただし、依存はさせない」
「一緒に立つ。でも、代わりにはならない」
エリシアは、深く息を吸い、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その一言に、すべてが詰まっていた。
『位相エンジン、起動』
『進路変更完了』
『転舵開始』
〈みらい〉は、ゆっくりと進路を変えた。
それは、星海の流れに逆らう動きだった。
安全圏から、嵐の中心へ向かう航路。
その瞬間。
橘遼は、観測者であることをやめた。
当事者になった。
そして、この選択が、後に「分岐点」と呼ばれることになる。
帝国の没落か。
連合の崩壊か。
あるいは、〈みらい〉自身の終焉か。
誰にも、まだ分からない。
だが、もう戻れないことだけは、確かだった。
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