第52話 刃の影 ― エリシア暗殺未遂事件
ヴァルディスに、久しぶりに晴れ間が戻った朝だった。
冬の名残を引きずる灰色の雲が切れ、淡い陽光が石畳を照らし、港からは穏やかな波音が届いていた。
それは、あまりにも平和に見える光景だった。
だからこそ、その日の事件は、後に「意図的に選ばれた日」だったと語られることになる。
エリシア・カルヴァーンは、午前九時、連合本部から南区難民居住区へ向かう予定だった。
圧力政策によって職を失った民が集まる区域であり、彼女は定期的に視察と対話を行っていた。
「今日は警護を増やしましょう」
秘書官のミレーナが言った。
「最近、脅迫文が増えています」
「逆効果よ」
エリシアは首を振る。
「武装した護衛に囲まれた政治家を、人は信用しない」
その判断は、政治的には正しかった。
だが、危険でもあった。
通りは、静かだった。
市場の露店はまだ準備中で、子どもたちがパン屑を求めて鳩を追いかけている。
エリシアは、足を止め、老婆に声をかける。
「困っていることはありませんか」
「水が……高くてね」
彼女は、その場で補助申請の手続きを指示した。
それを、誰かが遠くから見ていた。
南区旧鐘楼。
崩れかけた塔の中腹。
黒い外套の男は、息を殺していた。
手には、細身の長弓。
先端には、淡く光る結晶毒が塗られている。
一滴でも血に入れば、心臓が停止する。
帝国情報局製。
公式には、存在しない武器だった。
「距離、三百二十」
男は、心の中で計測する。
風速、微弱。
視界、良好。
条件は、完璧だった。
問題は、迷いだけだった。
標的は、噂通り、人間味のある女だった。
誰かに命じられた「敵」には、見えなかった。
エリシアが、路地の中央に差しかかった瞬間だった。
弦が、静かに引かれる。
空気が、張りつめる。
次の瞬間。
鋭い破裂音が、街に走った。
矢は、彼女の胸を貫くはずだった。
だが、そうはならなかった。
突如として、路地の端から飛び出した少年が、彼女にぶつかった。
「ごめんなさい!」
その衝撃で、彼女の身体は半歩ずれた。
矢は、肩口をかすめ、背後の壁に突き刺さる。
結晶が砕け、紫色の霧が広がった。
「伏せて!」
護衛が叫ぶ。
群衆が悲鳴を上げ、散開する。
エリシアは、地面に倒れ込みながら、自分の肩が焼けるように痛むのを感じていた。
「毒……?」
「浅い。致死量ではない!」
護衛隊長が即座に処置を施す。
鐘楼では、狙撃手が舌打ちした。
「外したか」
彼は、すでに撤退ルートへ走り出していた。
だが、その背後で、瓦礫が崩れる音がした。
路地裏。
覆面の男が、逃走者の前に立ちはだかる。
細身の体躯。
無機質な動き。
銀色の義眼。
「……情報局の人間ね」
狙撃手が呟く。
返事はない。
次の瞬間、意識は闇に沈んだ。
事件は、三十分後には帝国全土に知れ渡った。
「連合代表、暗殺未遂」
「背後に帝国関与か」
「宗教過激派の犯行説も浮上」
情報は、意図的に錯綜した。
真実は、霧の中に隠された。
ヴァルディス医療院。
エリシアは、白い天幕の下で目を覚ました。
「……生きてる?」
「しぶといのが、売りですから」
ミレーナが、涙混じりに笑う。
「あと五センチずれていたら、即死でした」
「運が良かっただけね」
彼女は、静かに言った。
だが、内心では理解していた。
これは、偶然ではない。
警告だ。
その夜。
〈みらい〉艦橋。
ユイは、事件データを解析していた。
『使用された毒素は、帝国特殊部隊規格に一致します。偶発的流出の可能性は極めて低い』
遼は、拳を握る。
「つまり……」
『中央の一部勢力が、連合指導部排除に踏み切った可能性が高い』
レイリアが低く言う。
「もう、裏の戦争が始まっているのね」
遼は、スクリーンに映る病床のエリシアを見つめた。
「……ここまで来て、まだ何もしないのか、俺は」
問いは、誰にも向けられていなかった。
刃は、振るわれた。
失敗した。
だが、意味は果たした。
地方連合に告げるための、無言の宣戦布告として。
そして〈みらい〉に対する、最後通告として。
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