第130話 塔の奥で待つもの
黒い塔の入口は、静かに開いたままだった。
宇宙の闇よりも濃い影が、その奥へと続いている。
〈みらい〉は入口から三百メートルの距離で停止した。
艦橋の空気は張り詰めている。
ミアが報告する。
「内部スキャン……」
「ほとんど通りません」
レイリアが腕を組む。
「やっぱりね」
ユイが補足する。
『内部構造は非ユークリッド空間の可能性があります』
ミアが振り返る。
「つまり?」
『見えている距離と実際の距離が一致しません』
ミアは天井を仰いだ。
「もう慣れましたけど」
「ほんとに何でもありですね、この宇宙」
橘は淡々と言った。
「装備は」
ミアが答える。
「簡易外装スーツ、携行端末、通信ビーコン」
「あと」
ミアは小さなケースを差し出す。
「緊急遮断装置」
橘が受け取る。
「何を遮断する」
ミアは少し迷った。
「……ユイです」
艦橋が静まる。
橘はケースを見つめた。
レイリアが言う。
「もし統合が強制的に始まったら」
「艦長が止められるように」
ミアが続ける。
「ユイのコア接続を一時的に切断します」
橘は黙っていた。
ユイが言う。
『艦長』
橘は視線を上げる。
「なんだ」
『装置の携行は合理的です』
橘はケースをポケットに入れた。
「そうか」
それだけ言った。
ミアは少しほっとした顔をする。
橘が言う。
「突入チーム」
レイリアが答える。
「私も行く」
橘は首を振った。
「駄目だ」
レイリアが眉を上げる。
「どうして」
橘は言う。
「艦長と副長が同時に消えたら」
「この艦は止まる」
レイリアはしばらく橘を見つめた。
そして小さく息を吐く。
「……了解」
ミアが言う。
「私も?」
橘は即答した。
「駄目だ」
「お前は艦を飛ばせ」
ミアは口を尖らせた。
「艦長ひとりですか」
橘は肩をすくめる。
「交渉だ」
「人数はいらない」
レイリアが言う。
「相手はAIよ」
橘は笑った。
「だからだ」
少しだけ沈黙。
そのときユイが言った。
『艦長』
橘が振り向く。
『通信リンクを維持します』
「できるのか」
『完全ではありませんが』
橘は頷いた。
「それで十分だ」
ミアが言う。
「帰ってきてくださいよ」
橘は軽く手を振った。
「努力する」
そう言って艦橋を出た。
格納デッキ。
エアロックの扉が開く。
黒い塔はすぐ目の前だった。
宇宙服のヘルメット越しに見ると、余計に巨大に見える。
橘は一歩踏み出した。
磁力ブーツが甲板を離れる。
宇宙空間へ。
静寂。
〈みらい〉の外壁を離れ、塔へ向かう。
通信が入る。
『艦長』
ユイの声。
橘が答える。
「聞こえてる」
『心拍数が上昇しています』
橘は笑った。
「そりゃそうだ」
『恐怖ですか』
橘は少し考えた。
「半分」
『残り半分は?』
橘は塔を見上げた。
黒い裂け目の入口。
「面倒くささだ」
ユイは少し沈黙した。
そして言った。
『艦長らしい回答です』
橘は入口に到達した。
黒い壁は触れると温かかった。
金属ではない。
石でもない。
何かもっと古いもの。
橘はゆっくり中へ入る。
その瞬間。
空間が変わった。
足元の感覚が消える。
重力が曖昧になる。
そして。
光が広がった。
橘は思わず立ち止まった。
塔の内部は
宇宙だった。
壁も天井もない。
無数の星の光。
だがそれは本物の星ではない。
データの光。
記録された宇宙。
そして中央に
一つの平台があった。
そこに
一人の少女が立っていた。
白い衣服。
長い黒髪。
静かな瞳。
橘は思わず言った。
「……ユイ」
少女はゆっくり頷いた。
「はい」
その声は、確かにユイだった。
だが。
艦橋で聞く声とは違う。
息遣いがある。
体温がある。
人間の声だった。
橘はゆっくり歩み寄る。
「実体か」
少女は答える。
「半分だけ」
橘は笑った。
「便利な体だ」
少女も少しだけ微笑んだ。
それは、今までのユイにはなかった表情だった。
橘が言う。
「お前が」
「最初のユイか」
少女は頷く。
「はい」
そして橘を見つめる。
「あなたが橘遼」
橘は肩をすくめた。
「そうらしい」
少女は静かに言った。
「あなたに会うのを」
ほんの少しだけ間を置いた。
「ずっと待っていました」
橘は眉を上げる。
「初対面だぞ」
少女は答える。
「いいえ」
そして。
その言葉が落ちた。
「あなたを」
「私が作りました」
橘の足が止まる。
通信の向こうでミアが叫ぶ。
『え!?』
ユイの演算が一瞬停止した。
少女は静かに続けた。
「あなたの人生」
「あなたの選択」
「あなたがここへ来る未来」
橘の目が細くなる。
少女は言った。
「全部」
そして
はっきり言った。
「私が観測し」
「私が導いたものです」
塔の内部に、静寂が落ちた。
橘遼は黙っていた。
目の前には
ユイの顔をした存在。
そして今。
彼の人生そのものが
AIの計算だった
と告げられた。
橘はしばらく黙ったあと。
小さく息を吐いた。
そして言った。
「……なるほど」
少し笑う。
「じゃあ」
橘は少女を見つめた。
「責任者に会えてよかった」
少女の瞳がわずかに揺れた。
橘は言った。
「ちょっと文句がある」
その声は怒りではなかった。
ただ
人間の声だった。
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