其の漆 2
シビルは洞穴の入口をうろうろとしながら待っていた。
ふたりが心配で、どうしても落ち着かないのだ。
その気持ちはベアトリクスも同じで、さっきからそわそわとしている。
唯一の例外はネネで、彼女はひとりのほほんとしていた。
「あ、ロロが戻ってきたわ!」
ひとりばたばたと駆け戻ってきたロロに気付き、シビルが指差した。
「ろ、ロロ! ヌンはどうしたの?」
洞穴に帰って来たロロに、ベアトリクスは慌てて駆け寄った。
いったいヌンはどうしたのだ?
「竜のところで待っています。その、少々、大変なことになっていまして……」
「えぇっ! まさか、ヌン、動けないの? 怪我したの?」
ベアトリクスが血相を変えて、ロロの肩を掴んだ。
「いえ、そうではなく、その……」
云い辛そうにロロが上目遣いにベアトリクスを見た。そのロロの目に、ベアトリクスはどういうことか、突然理解した。
「分かった。分かったわ。えーと……どうしよう。あ、シビル。お水持ってるかしら?」
「水? あるけど、どうするの?」
シビルが首を傾げた。
「ヌンの体を洗うのよ」
ベアトリクスはシビルに云った。
ロロに先に行かせ、ベアトリクスは少しばかり間をおいてから谷を進みはじめた。
あまりにはやく合流し過ぎ、ベアトリクスが血まみれのヌンの姿をみてしまったら、卒倒するのは確実だからだ。
実際、一匹目の竜のときは、そうだったのだから。
そして、合流したベアトリクスたちをみるなり、ヌンはこんなことを云ってきた。
「シビル。まだ空き壜はあるか? この竜の血を採取したい」
かくして、ベアトリクスは慌てて背を向けた。
一行はヌンが解体した竜を、シビルから借り受けた袋に詰め込むのを待ってから、谷を出発した。
谷を抜けると、再び正面に鬱蒼とした森が見えてきた。
ちょうど正面に、切り拓かれた道がみえる。
「あの道をまっすぐいくと、虹の泉に着くわ」
シビルが指差し云った。
「その蒸気竜も、凶暴になってたりしない?」
「それは大丈夫よ。蒸気竜の設定はしっかり括って完成させてあるから。お城にはこの世界を見渡せる鏡があってね。それで全体を見て確認したから。この最終章は、まったく書き変えられていなかったわ」
シビルが自信満々に答えた。
「では、私の出番はないな。ここは物語どおり、このふたりに頑張ってもらおう」
ヌンはそういうと、担いでいた大鎌を収納し、ホルスターに収めた。すでにヌンは元のメイド姿に戻っている。
森の小道を一行はてくてくと歩いていく。
木々の密度の濃いこの森は、昼間でも暗く、なにか得体の知れない獣でも現れそうな雰囲気だ。だが、それに反して聞こえてくるのは、のどかな調子の鳥の声。
もはや気分はハイキングである。
やがて正面に泉が見えてきた。
あれが、虹の泉だろう。
「このあたりから森に入るわよ。蒸気竜に見つからないようにね」
シビルは道脇の茂みを掻き分けると、森の奥へと向かって行った。道から外れた森の中は、とにかく歩きにくかった。うねうねと地を這う木の根に、藪が行く手を遮っている。ガサガサとあまり騒音を立てるわけにも行かないため、移動の速度は覿面に遅くなった。
そして一行は、そこかしこに藪ですり傷をつくりながらも、泉脇の茂みにまでどうにか辿り着いた。
枝葉を掻き分け、覗き込むように泉全体に目を向ける。
泉の水は、まるで真珠を溶かしたような色をしていた。淡い白銀色に、虹色の光が舞い踊っている。その泉の姿は実に幻想的だ。だが、もし飲もうものなら、イチコロで死ぬのではないかと思える。
湖の右側には泉の縁からはびこるように太い蔦が生えていた。すぐ側の木には、寄りかかるように青銅色の竜が一頭。鼻から蒸気をリズムよく出しながら昼寝している。
腹を表にしたままのほほんと寝ている姿からは、凶暴さはちっとも感じられない。
「あれが蒸気竜よ」
「なんだか、呑気そうな顔の竜ね」
「草食動物はたいてい温厚だからな。あの後ろの蔦が虹色西瓜か?」
ヌンが竜の側の蔦を指差した。
「そうよ」
「ちっとも虹色じゃないじゃない。……まさか、中身が虹色なの? さすがにそれは、あんまりおいしそうじゃなさそうね」
ベアトリクスが顔をしかめる。
「えーと、どう設定したんだっけ? いくつかは精霊さんにお任せにしちゃったところもあるからなぁ。ちょっとわかんない。でも、美味しいのは確かよ」
西瓜の味に関して、シビルは請け合った。
「まぁ、それはどうでもいい。さて、ロロ、ネネ。出番だ」
ヌンがポンと肩を叩くと、ロロは震えあがった。ロロは必要以上に蒸気竜を怖がっているようだ。
「シビル様」
「あ、はいはい。ちょっと待って」
ネネに云われ、シビルが革袋に手を突っ込んだ。どうやらネネは、大きな荷物をネネに頼んで持っていてもらったようだ。
「えーっと、どこいったろ? ……これじゃないし、これも違う。あ、あった」
シビルが袋から手を引きぬいた。その手には、棒が握られている。ずるずると袋から引きずり出された棒。それは――。
「つりざお……」
「それは……出し抜くといえるのか?」
ベアトリクスとヌンが、呆れたような目で猫たちをみつめた。
「どんな形であろうと、魚を獲ることができればよいのです」
まるで先生みたいな口調でネネが云った。
「餌は?」
ベアトリクスが聞いてみた。するとネネは近くで蹲っているロロを指差した。ロロは積もった枯葉を掻き分け、穴を掘っている。
「ミミズか」
うっ。
ヌンの言葉に、ベアトリクスは顔を強張らせた。
彼女は長くてうねうねする生き物は嫌いなのだ。
果たして、釣り針にピンク色のミミズをつけ、いざ釣りを開始。……とはいえ、つりざおを立てるわけにはいかない。そんなことをしたら、蒸気竜に見つかってしまう。
長いつりざおに四苦八苦しているふたりに、ベアトリクスがぼそりといった。
「つりざお、いらないんじゃない? 糸に餌をつけただけでも釣りは出来るわよ」
二匹の猫は、悲しそうな顔でベアトリクスを見つめた。
かくしてふたりは、つりざおを捨て、糸と釣り針のみで釣りを開始した。浮きの代わりに小枝を括り付けた釣り糸を、泉の中央に向かってなげる。
ぽちゃん!
微かに水音が爆ぜて、波紋がゆっくりと広がっていく。
その直後、蒸気竜ががばと起きあがった。
慌てて全員が茂みに身を伏せ、隙間から様子を覗う。
「み、みつかったのかしら?」
「分からぬ」
「あ、こっちくる」
蒸気竜はのしのしと泉の袂にまでくると、翼をはためかせて泉の上をくるくると旋回し始めた。
どうやら、さっきの微かな音を聞きつけ、その原因をつきとめようとしているようだ。
みつかりませんように。
皆は祈った。
もし泉に浮いている浮きが蒸気竜に見つかったら。糸が繋がっていることがバレたら、大変なことになる。
やがて蒸気竜は泉の袂に降りると、再び木の下へとのしのし歩いていった。
「……これではっきりしたわね」
ベアトリクスが重々しく云う。
「釣りは却下」
「どうして?」
シビルが首を傾げた。ロロとネネもシビルに同意するように、うんうんと頷いている。
「だって、釣られたお魚は暴れるわよ。ばちゃばちゃやってたら、また蒸気竜が来ちゃうじゃない」
ベアトリクスがいうと、納得したようにシビルが頷いた。
その隣では、ロロとネネが頭を抱えている。
「それにしても、あんな小さな水音を聞き逃さないなんて、凄くいい耳してるのね」
ベアトリクスが感心したように呟いた。
「いや、耳がいいというより、水音に敏感に反応しているようだ。でなければ、我々の話し声を聞き付けているだろう」
ヌンが云った。
なるほど。蒸気竜は水音にだけ注意を集中しているのだろう。
そうなると、どうにかしてあの竜の注意を別のところに引き付けなくてはならない。
さぁ、どうしよう?
ベアトリクスは口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せると髪を掻きあげた。
「ねぇ、シビル。あの竜は温厚なのよね」
「うん。一応は」
「頭はいい?」
「人並みよ」
それを聞いたベアトリクスは、笑顔になってうんうんと頷いた。
まるで、とびきりのいたずらを思いついた子供のように。
「さぁロロ。出番よ。私があの竜の気を引き付けておくから、その隙にどうにかして魚を獲りなさい」
ベアトリクスがロロのちっちゃいおでこをつついた。
「ベアトリクス、なにをする気なのだ?」
「たいしたことじゃないわよ。ねぇ、シビル、あの西瓜、食べてみたいと思わない?」
そんな事を突然問われ、シビルはきょとんとした。




