第八話 「途切れた手掛かり」
現在――
夜も更けた頃、イヴェール家の屋敷にある一室には、まだ明かりが灯っていた。
机の上には、何冊もの帳簿と調査報告書が広げられている。蝋燭の火が揺れるたび、紙面に記された文字の影がゆらりと動いた。
セレナはソファに腰掛け、手元の書類へ目を落としていた。
顔から鎖骨にかけて、火傷の痕が残っている。
それでも、彼女の表情は穏やかだった。
「……これも、違うのね」
書類を閉じ、机の端へ置く。
記されていたのは、二年前の襲撃事件の前後に行われた人員の移送記録だった。名前のない者、偽名を使った者、行き先が曖昧な者。どれも調査する価値はあったが、クロエの行方につながる確かな証拠は見つかっていない。
扉を叩く音がした。
「入ってちょうだい」
入室してきたのは、夫のルカだった。
「まだ調べていたのか」
「ええ。もう少しだけ、と思っていたのだけれど」
セレナは困ったように微笑んだ。
ルカは机の上の書類に目を向け、短く息を吐いた。
「少し休んだ方がいい。君が倒れたら、捜索を続ける者まで困る。それに……ヴェルマリスも、ずいぶん気に病んでいるんだろう?」
セレナの指先が、ぴたりと止まった。
「……あの子、自分がそばにいたのにクロエを守れなかったって、ずっと自分を責めているの」
「まだ幼いあの子に、すべてを背負わせるわけにはいかない」
ルカは静かに言った。
「ヴェルは、私たちが思っている以上にクロエを大切にしている。あの子にとっても、クロエは妹のような存在だからな」
セレナは目を伏せた。
「ええ……分かっているわ。あの子まで傷ついているのに、私は自分のことで精一杯だったのね」
「君だって、平気なわけじゃないだろう」
ルカは机の上の書類に目を向け、短く息を吐いた。
「二人とも、私たちにとって大切な子どもだ。だからこそ、君もヴェルも、一人で抱え込まないでほしい」
セレナは困ったように微笑んだ。
「……そうね。ありがとう、あなた」
けれど、彼女の視線はすぐに書類へと戻った。
「でも、何か見落としている気がするの」
セレナは指先で、古い報告書の端をなぞった。
「襲撃者がザイル王国から送り込まれたことは分かった。それなのに、クロエがどこへ連れていかれたのか、どうしても分からない。あれだけの人数が動いたのに、痕跡がほとんど残っていないなんて……」
「向こうが、最初から痕跡を消すつもりだったのかもしれない」
「そうね」
彼女は静かに頷いた。
ザイル王国が関わっている。それは、すでに分かっている事実だった。
けれど、国全体が関与しているのか。それとも、一部の人間が独断で動いたのか。クロエが襲撃の目的だったのか、それとも混乱に乗じて連れ去られたのか。
何一つ、確かなことは言えなかった。
「……あの子は、今もどこかで私を探しているかもしれないわね」
セレナの声は、ひどく静かだった。
ルカはすぐには答えなかった。
彼もまた、娘の行方を探し続けてきた。何度も手掛かりを追い、何度も期待を裏切られてきた。それでも、諦めるという選択肢はなかった。
「クロエは強い子だ。君に似てね」
「ふふ……そうね。頑固なところまで、そっくりだわ」
セレナは微笑んだ。
その笑顔はいつもどおり柔らかかったが、目元には疲れが滲んでいた。
ルカは彼女の隣に腰を下ろし、机に積まれた書類の一つを手に取った。
「これは?」
「襲撃の前後に確認された移送記録よ。今まで調べたものとは別の経路から手に入ったの」
「何か分かったのかい?」
「まだ確証はないわ。ただ……」
セレナは一枚の紙を差し出した。
「二年前、ザイル王国へ人が移送された可能性があるそうなの。記録には不自然な空白が多くて、人数も名前も正確には分からない。けれど、時期が一致している」
ルカの表情がわずかに変わった。
「クロエの可能性は?」
「否定はできない。でも、これだけでは何とも言えないわ」
セレナは紙を見つめた。
たった一行の記録だった。
行き先はザイル王国。移送された者の詳細は不明。記録の一部は欠落しており、出所もまだ追跡できていない。
それでも、二年間ほとんど動かなかった捜索に、新しい道が一本加わった。
「この記録を手に入れた経路を調べて。関係する商人や運び屋がいれば、可能な限り洗い出してほしい」
「分かった。こちらでも調べてみるよ」
「ありがとう、あなた」
セレナはルカの頬に軽くキスをした。
それから紙を丁寧に折り、ほかの資料とは分けて置いた。
期待しすぎてはいけない。
過去にも、手掛かりだと思ったものが何度も行き止まりに変わった。今回も、そうなるかもしれない。
それでも。
もし、この記録の先にクロエがいるのなら。
今度こそ、見つけ出したい。
セレナは胸元に手を添えた。
火傷の痕に触れることはしなかった。ただ、そこに残る痛みを確かめるように、しばらく指先を置いていた。
「……待っていてね、クロエ」
声は小さく、部屋の中に溶けていった。
窓の外では、秋の夜風が木々を揺らしている。
セレナは窓辺へ目を向けた。
この季節になると、今も胸の奥が重くなる。自分の力が歪み、大地を枯らしてしまうことも、あの日の記憶も、忘れることはできなかった。
それでも、彼女は前を向く。
クロエを見つけるために。
そして、二度と同じことを繰り返させないために。




