第七話 「二年前の襲撃」
―― 二年前、秋。
その年、エルビーナ王国では作物の育ちが悪かった。
春から夏にかけて十分な実りを得られず、秋の収穫も期待を下回った。王国は他国から食料を輸入し、不足分を補うことで大規模な飢饉を避けていたものの、その恩恵がすべての国民に行き渡ったわけではなかった。
食料の価格は日を追うごとに上がり、市場では以前なら誰もが買えたパンや穀物さえ、気軽には手を伸ばせない値段になっていた。
余裕のある者は、値上がりした食料を買うことができる。
しかし、もともと暮らしに余裕のない家庭にとっては、それすら難しい。まして、子どもの多い家庭ならなおさらだった。
食卓に並ぶ料理は少なくなり、親たちは自分の分を減らしてでも子どもたちに食べさせようとした。
市場では、食料を求める人々の列ができていた。
「また値上がりしたのかい? この前買ったときより、ずっと高くなってるじゃないか」
「仕方ないだろう。どこも収穫が悪かったんだ。仕入れる方だって、安く売っていたら商売にならない」
「仕方ない、仕方ないって……。こっちは仕方がないじゃ済まないんだよ。明日食べる分だって、どうするか考えているのに」
店主も困ったように眉を寄せた。彼自身、以前と同じ値段で商品を仕入れることはできなくなっていたのだ。
値を下げれば自分の生活が立ち行かなくなる。かといって、この値段では買えない者が増えていく。
誰かを責めたところで、目の前の穀物が増えるわけではなかった。
少し離れた場所では、買い物を終えた女たちが小声で話していた。
「それにしても、貴族様たちは何をしているんだろうね。あれだけの土地や財産を持っているんだから、もう少し私たちに分けてくれたっていいじゃないか」
「全くだよ。こっちは食べるものにも困っているっていうのに、あちらは今まで通りの暮らしをしているんだろう?」
「そんなことを言ったって、貴族の方々にもそれぞれ事情があるんじゃないかい?」
「事情ねえ……。私たちにだって事情はあるさ」
言葉の端に、抑えきれない不満がにじんでいた。
もちろん、すべての貴族が何もしていないわけではない。領地の備蓄を開放した者もいれば、困窮した領民に食料を配った者もいた。
だが、そうした支援が届く地域もあれば、ほとんど恩恵を受けられない地域もある。
支援を受けた者は感謝し、受けられなかった者は不公平を感じる。
同じ王国に暮らしていても、人々が置かれた状況は違っていた。
「王宮は何をしているんだろうね。国全体のことを考えるのが、王様のお仕事じゃないのかい?」
「他国から食料を買い付けているんだろう? それがなければ、今頃もっとひどいことになっていたかもしれない」
「それは分かっているよ。でも、食料を輸入したって、私たちが買えなければ意味がないじゃないか」
「じゃあ、どうすればいいんだ? 値段を下げろと言ったところで、食料そのものが足りないんだぞ」
誰かが口を開けば、別の誰かが反論する。
王宮の対応が遅いと嘆く者もいれば、これ以上の悪化を防ぐために動いているのだと擁護する者もいた。貴族に分配を求める声がある一方で、領地を守るためには彼らにも備蓄が必要なのだと主張する者もいる。
誰もが、自分の暮らしを守るために必死だった。
そんな中、ふと、イヴェール家の名を口にする者がいた。
「それに、イヴェール家だってそうだ。軍を持ち、聖女様までいらっしゃるというのに、どうしてこの国の土地は豊かにならないんだろうな」
「おい、聖女様を悪く言うなよ」
すぐさま、別の男がたしなめた。
「セレナ様は、この前だって支援に来てくださったじゃないか。食料を配る手配までしてくださったんだぞ」
「それは知っているさ。俺だって、セレナ様が悪いと言いたいわけじゃない。ただ、あれだけの力を持った方がいても、どうにもならないのかと思っただけだ」
「……聖女様にだって、できることとできないことがあるだろう」
「じゃあ、誰ならどうにかできるんだ?」
問いかけた男の声に、周囲は黙り込んだ。
イヴェール侯爵家が領民のために尽力していることは、多くの者が知っていた。彼女が支援に訪れた地域では、食料の配布や生活に困窮した家庭への援助も行われている。
その姿を見て、感謝している者も少なくない。
だからこそ、彼女を責めることにはためらいがあった。
だが、感謝しているからといって、目の前の苦しさがなくなるわけではない。
「……聖女様が悪いなんて、私も思っちゃいないよ」
列の端にいた年配の女が、疲れた声で口を開いた。
「でもね、セレナ様がどれだけ頑張ってくださっても、うちの子に食べさせるものが増えるわけじゃないんだ。感謝しているよ。本当に。でも、それとこれとは別なんだ」
誰も、すぐには言い返せなかった。
彼女の言葉には、聖女への非難も、王宮への怒りもなかった。ただ、どうにもならない暮らしへの疲れが滲んでいた。
やがて、誰かがぽつりとこぼした。
「……一体、誰に頼ればいいんだろうね」
その言葉に、周囲の者たちは顔を見合わせた。
王宮には、もっと対策を進めてほしい。
貴族には、余裕のあるところからでも支援してほしい。
商人には、せめてこれ以上値段を上げないでほしい。
そして、聖女には、いつかこの苦境を変えてほしい。
願いはそれぞれ違っていた。けれど、誰もが今の生活を少しでもよくしたいと願っていることだけは同じだった。
それでも、誰に何を求めれば、この状況が変わるのかは分からない。
不満を口にしたところで、凶作がなかったことになるわけではない。誰かを責めたところで、明日の食卓が豊かになるわけでもない。
人々は不安を抱えたまま、それぞれの家へ帰っていく。
エルビーナ王国は、まだ大規模な飢饉には陥っていなかった。
不満は、少しずつ広がっていた。
聖女であるセレナへの人々の期待は大きい。
そして、期待が大きいほど、思いどおりにならなかったときの失望も大きくなる。
セレナは、そうした声を知らないわけではなかった。
それでも、彼女はできることを続けていた。
足りない食料を確保するための調整を行い、困窮した家庭への支援を進め、領地の管理を担う者たちと何度も話し合いを重ねた。
聖女としての務めも、組織の指揮も、決して手を抜かなかった。
それでも、すべての人を救うことはできなかった。
その事実は、彼女自身が誰よりもよく理解していた。
*
襲撃が起きたのは、そんな秋のある日だった。
組織の施設を襲った者たちは、統制の取れた動きで内部へ侵入した。
突然の襲撃に、施設内は混乱に包まれる。
セレナは状況を把握すると、負傷者の救護と部下たちの退避を優先するよう指示した。
「こちらの通路から人を逃がして。負傷者は医療班へ。まだ中にいる者がいれば、必ず連絡を」
落ち着いた声だった。
どれほど状況が悪化しても、彼女は取り乱さなかった。
自分が動揺すれば、周囲の者たちまで不安にさせてしまう。
今は一人でも多くの部下を守らなければならない。
そう考えていた。
煙の立ち込める通路を進み、負傷した部下を助け起こした。
「セレナ様、もう十分です! これ以上は危険です!」
「まだ中にいる人がいるわ」
彼女は振り返り、部下を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。私は後から行くから、あなたは先に」
その言葉が、どれほど無理をして発せられたものだったのか。
彼女のそばにいた者たちには、分かっていた。
それでも、誰も彼女を止めることができなかった。
守るべきものがある限り、セレナは自分を後回しにする。
それが彼女という人だった。
その直後、頭上から鈍い音が響いた。
崩れかけた天井の一部が、彼女たちのいる通路へと崩れ落ちてくる。
「危ない!」
セレナは咄嗟に部下を突き飛ばし、その身をかばうように覆いかぶさった。
次の瞬間、爆ぜるような音とともに炎が広がった。
熱風が二人を包み込み、セレナの顔から首元へと熱が走る。頬から顎、首筋を伝い、鎖骨に至るまで、肌が焼けるような痛みに襲われた。
それでも、彼女は部下を離さなかった。
やがて炎が弱まり、崩れた瓦礫の向こうから人の声が聞こえてくる。
「セレナ様……! お怪我を……!」
「私はいいから。あなたは無事?」
セレナは顔をしかめながらも、部下の肩を支えて立ち上がらせた。
顔から鎖骨にかけて広がった火傷は、隠しようもないほどのものだった。それでも彼女は、自分の傷を確かめようともせず、周囲へ視線を巡らせた。
「まだ中にいる人がいるわ。動ける人は、負傷者の救護を手伝って」
落ち着いた声だった。
どれほど状況が悪化しても、彼女は取り乱さなかった。
自分が動揺すれば、周囲の者たちまで不安にさせてしまう。
今は一人でも多くの部下を守らなければならない。
そう考えていた。
やがて、襲撃者たちは施設から姿を消した。
火の手は収まり、負傷者の確認が始まる。
生き残った部下たちが互いの無事を確かめ合う中、セレナはふと、あることに気づいた。
……クロエは?
いつもなら、この時間はヴェルマリスと一緒に勉強をしているはずだった。
少し離れた場所から様子をうかがっていたり、心配そうに駆け寄ってきたり。時には、危ないからと注意しても、母の手伝いをしようとついてきたり。
そんな娘の姿が、どこにもなかった。
「セレナ様!!」
不意に、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、ヴェルマリスがこちらへ駆け寄ってくる。その顔には不安が浮かび、いつもの明るさはなく、珍しく、今にも泣き出しそうな声だった。
「クロエが……クロエがいないんです……!」
その言葉に、セレナの表情が強張った。
「……ヴェルマリス」
彼女は駆け寄ってきた少年の姿を確かめるように見つめた。
「あなたは無事なのね……」
安堵したようにヴェルマリスの肩に手を添えたセレナだったが、その手には力が入っていなかった。
ヴェルマリスは彼女の顔を見上げ、息を呑んだ。
「セレナ様、お顔……! 火傷が……!」
顔から首元にかけて広がる傷に、ヴェルマリスの表情が歪む。
「こんなの、大丈夫よ。それより、クロエは?」
「……ごめんなさい。僕がそばにいたのに……」
ヴェルマリスは俯き、ぎゅっと拳を握りしめた。
いつもなら、どんなときでも前を向こうとする彼が、今はひどく悔しそうな顔をしていた。
セレナはそんな彼を見つめたが、何も言わず、再び周囲へと視線を向けた。
崩れ落ちた天井が廊下を塞ぎ、砕けた壁の向こうでは、炎が音を立てて燃え広がっていた。煙が立ち込め、奥へ進もうにも、崩落した瓦礫が行く手を阻んでいる。
「クロエ……どこにいるの……?」
名前を呼ぶ。
返事はない。
もう一度、今度は少し大きな声で呼んだ。
それでも、何も聞こえなかった。
「クロエ……?」
セレナは歩き出した。
負傷した腕を押さえることも忘れ、崩れた壁の向こうを確かめ、部屋を一つずつ探していく。
「セレナ様、こちらは私たちが確認します!」
部下の一人が声を上げた。
「まだ近くにいるかもしれないわ。探さないと…!。クロエどこにいるの……」
懇願するような声に、部下たちは顔を見合わせた。
誰もが、セレナの気持ちを理解していた。
けれど、建物は崩れ、火の手も完全には収まっていない。負傷者も多く、ここに残り続けるのは危険だった。
「セレナ様。このままでは、ほかの者まで危険にさらします。まずは撤退し、態勢を立て直すべきです」
「でも、クロエが……!」
「必ず捜索を続けます。今は、セレナ様ご自身も手当てを受けてください」
セレナは首を横に振り、再び娘の名を呼ぼうとした。
そのとき、ヴェルマリスが彼女の手をそっと握った。
「セレナ様……お願いです。今は戻りましょう」
声が震えていた。
「その傷だって、ちゃんと手当てしないと……。セレナ様まで倒れたら、ボク……」
言葉が続かなかった。
クロエが見つからない。その不安はヴェルマリスも同じだった。今すぐにでも探しに行きたかった。
それでも、目の前で傷ついたセレナを、このままにしておくことはできなかった。
セレナはヴェルマリスを見つめた。
その瞳には、娘を案じる少年の不安と、自分を心配する気持ちが入り混じっていた。
「……ヴェルマリス」
セレナは握られた手を見下ろし、唇を噛んだ。
やがて、張り詰めていた肩がわずかに落ちた。
「……わかったわ。でも、必ず捜索を続けて。どんな小さな手がかりでも、見逃さないで」
「はい。必ず」
部下たちは負傷者を支えながら、撤退を始めた。
セレナは何度も振り返った。
そのたびに、ヴェルマリスもまた、娘の姿を探すように周囲へ目を向けた。
しかし、どこにもクロエの姿はなかった。
襲撃の混乱に紛れて、クロエは姿を消していた。____
*
事件の直後、襲撃者の正体について、さまざまな憶測が飛び交った。
食料不足に対する国民の不満が高まっていたことから、一部の者たちは、襲撃は国民による反発だったのではないかと。
セレナたちが国民から恨まれ、報復を受けたのだと。
だが、組織はその説を受け入れなかった。
残された痕跡を調べ、関係者の証言を集め、襲撃者の足取りを追った。
調査は長く続いた。
そして、ようやく一つの事実が浮かび上がった。
襲撃者たちは、国民ではなかった。
ザイル王国が送り込んだ者たちだった。
それ以上のことは、まだ分からなかった。
誰が指示を出したのか。
なぜイヴェール家の組織が狙われたのか。
そして、クロエを連れ去ったのは誰なのか。
判明したのは、襲撃にザイル王国が関与していたということだけだった。
セレナは報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。
「……そう」
ようやく口を開いた声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「調べてくれてありがとう。引き続き、分かったことがあれば報告してちょうだい」
部下が退出した後も、彼女は机の前から動かなかった。
目の前には、調査報告書が置かれている。
そこにクロエの居場所は記されていない。
娘を連れ去った人物の名前もない。
何も、取り戻せていない。
セレナは両手を組み、静かに目を閉じた。
自分がもっと早く異変に気づいていれば。
自分が、あと少しだけ周囲を見ていれば。
自分が母親として、娘を守れていたなら。
考えても仕方のないことだと、頭では分かっていた。
それでも、考えずにはいられなかった。
「……ごめんなさい、クロエ」
誰もいない部屋で、彼女は娘の名を呼んだ。
「お母さんが、ちゃんと守ってあげられなくて」
窓の外では、秋の風が吹いていた。
庭に植えられた草花は、季節の移り変わりとともに色を変え始めている。
セレナはそれを見つめたまま、長い間、動かなかった。
彼女の心の中には、娘を失った悲しみと、守れなかった自分への責めだけが残っていた。
やがて、その感情は、彼女の力にまで影響を及ぼし始める。
*
最初に異変に気づいたのは、庭の管理をしていた者だった。
セレナが普段どおりに大地へ力を注いだにもかかわらず、植物は元気を取り戻すどころか、日に日に勢いを失っていった。
土は乾き、葉は色を失い、まだ枯れる季節ではない草花までもが弱っていく。
セレナは何度も力を使い直した。
けれど、結果は変わらなかった。
「どうして……?」
自分の手を見つめる。
乙女座の血を引く者として、彼女は幼い頃から大地を豊かにする力を扱ってきた。
土地を潤し、草木を育て、実りをもたらす。
それは、彼女にとって当たり前のことだった。
それなのに。
今、自分の力が触れた場所から、命が失われていく。
セレナは手を引いた。
その瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が、再び込み上げてきた。
クロエを失った悲しみ。
見つけられない焦り。
自分なら守れるはずだったという思い。
そして、何もできていないという自責。
そのすべてが、彼女の力を歪ませていた。
本来、大地を豊かにするはずの力が、逆の性質を帯びてしまったのだ。
セレナは、その場に立ち尽くした。
自分が悲しむことすら、許されないのだろうか。
そんな考えが、一瞬、頭をよぎった。
だが、彼女はすぐに首を横に振った。
悲しみをなくすことなどできない。
クロエを忘れることもできない。
それでも、自分の力でこれ以上誰かを苦しめるわけにはいかなかった。
その年の秋から冬にかけて、セレナは表舞台から姿を消した。
公の場に出ることを控え、乙女座の力を使うことも必要最低限にとどめるようになった。
人々には体調を崩したのだと説明された。
しかし、彼女が姿を見せなくなった本当の理由を知る者は、ほとんどいなかった。
春が来れば、力は再び本来の性質を取り戻す。
けれど、秋が深まり、冬が近づくたびに、セレナは同じ季節を迎えることになる。
娘を失った、あの日の記憶とともに。
*
それから二年。
セレナは今も、クロエを探し続けていた。
表向きは穏やかな笑みを絶やさず、組織を率い、必要なときには聖女として人々の前に立つ。
しかし、秋が近づくと、彼女は少しずつ表舞台から距離を置くようになる。
それを不思議に思う者もいた。
かつてのように、いつでも人々を救ってくれる聖女ではなくなったのだと、不満を口にする者もいた。
それでもセレナは、何も言い返さなかった。
自分の事情を説明したところで、失った娘が戻ってくるわけではない。
だから、彼女はただ、できることを続けた。
調査を続け、情報を集め、クロエが生きている可能性を探し続けた。
そして今。
オークション会場から持ち帰られた資料の中に、ザイル王国と人身売買をめぐる新たな手掛かりが見つかった。
それがクロエにつながるものなのか、まだ分からない。
ヴェルマリスたちが追う十年前の記録と、セレナが追い続ける二年前の襲撃事件。
二つの調査は、まだ別々の道を進んでいる。
けれど、どちらも同じ国の名へと近づき始めていた。
ザイル王国。
その名の向こうに何が隠されているのか。
そして、失われた人々は今、どこにいるのか。
答えはまだ、誰の手にもなかった。




