第一話「ほどけた手」
夢を見るのは、いつも同じ夜だった。
乾いた風が吹いていた。
どこまでも続く砂の大地。ひび割れた石壁。夕暮れの空は赤く染まり、遠くから誰かの叫び声が聞こえている。
けれど、幼いヴェルマリスには、そんなものはどうでもよかった。
彼の両側には、双子の兄たちがいたからだ。
右手を握る兄は、いつも少しだけ意地悪だった。ヴェルマリスが転びそうになると笑うくせに、決して手を離さない。
左手を握る兄は、そんな二人を見て、困ったように笑っていた。
どちらも、ヴェルマリスにとって世界のすべてだった。
「にぃちゃん、どこいくの?」
幼い声が、風にさらわれる。
「大丈夫だ」
どちらの兄が答えたのか、思い出せない。
ただ、その声はひどく優しかった。
「俺たちがいるから」
繋いだ手に、少しだけ力がこもる。
ヴェルマリスは安心して、二人の顔を見上げた。
――そのはずだった。
いつからだろう。
兄たちの歩く速度が、少しずつ速くなっていた。
「待ってよ」
足を動かす。砂に取られた足が、思うように前へ進まない。
「兄ちゃん?」
握られた手が、遠くなる。
おかしい。
手は繋がっているはずなのに。
指先が、触れ合う面積が、少しずつ減っていく。
ぎゅっと握り返した。
それでも、兄たちの姿は遠ざかっていく。
「まって!」
声が震えた。
兄たちは振り返った。
片方の兄が、何かを言った。
もう片方の兄は、泣きそうな顔で笑っていた。
けれど、風の音が大きくなり、その声をかき消してしまう。
繋いでいた手が、ほどけた。
「――にぃちゃん!」
ヴェルマリスは、必死に手を伸ばした。
届かない。
もう一度、手を伸ばす。
あと少し。あと少しで、届くのに。
指先が空を掴んだ、その瞬間。
*
「――っ!」
ヴェルマリスは目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。
窓の隙間から朝の光が差し込み、壁に掛けられた上着の輪郭を浮かび上がらせている。
夢だ。
分かっている。
もう何年も前のことだ。今さら、あの日に戻れるはずもない。
それでも、伸ばした手はしばらく宙に浮いたままだった。
ゆっくりと握りしめる。
手のひらには、何も残っていなかった。
「……最悪」
小さく呟き、ヴェルマリスは顔を覆った。
夢を見るたび、いつも最後は同じだった。
兄たちの顔は覚えている。声も、手の温かさも、確かに覚えている。
けれど、別れた日のことだけは、ところどころが曖昧だった。
何が起きたのか。
誰が自分たちを引き離したのか。
兄たちは、今どこにいるのか。
考えようとすると、決まって記憶の向こう側に霧がかかった。
ただ一つ、確かなものがある。
ヴェルマリスは、兄たちと再会することを諦めていなかった。
ベッドから起き上がると、首元に手を伸ばす。
服の下に隠されたネックレス。幼い頃、兄から渡されたものだった。
飾り気のない小さなそれは、長い年月を経ても、彼の手元に残り続けている。
「……絶対、見つけるから」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
そのとき、扉が遠慮なく開いた。
「隊長。起きてますか?」
「起きてるよー」
気の抜けた返事に、ジャンは扉の向こうから室内を覗き込んだ。
「……その割には、まだ寝癖がついていますが」
「え、嘘。どこ?」
ヴェルマリスは慌てて頭に手をやった。そんな彼を見て、ジャンは小さくため息をつく。
「冗談です。早く支度してください。出発まで時間がありません」
「ジャンって、たまに意地悪だよね」
「隊長が時間どおりに動いてくだされば、私も余計なことを言わずに済むんですがね」
ジャンは落ち着いた声で答えた。長年、部下を率いてきた経験からか、目の前の少年がどれだけ自由奔放に振る舞おうとも、いちいち動じることはない。
もっとも、ヴェルマリスが無茶をしないという意味ではなかったが。
ヴェルマリスは椅子に掛けてあった上着を羽織り、腰回りの装備を確かめた。最後に、ネックレスを身につける。
「今日の任務、もう一度確認しておくぞ」
ジャンが表情を引き締めた。
「貴族や富裕層たちに違法オークションの情報を流していたとされる男。その身柄を確保し、情報の出所を探る。男がオークションそのものに関与しているかは、まだ分かっていません」
「なるほどね。そいつが貴族らに情報を売ってたのか、それとも別の誰かに頼まれて流してたのか……そこを聞き出せばいいわけだ」
「そのとおりです。くれぐれも、独断で動かないように」
「はいはい」
「本当に分かっていますか?」
「分かってるってば!」
ヴェルマリスは笑いながら部屋を飛び出した。
ジャンはその背中を見送り、再びため息をついた。
「……先が思いやられる」
*
男が走っていた。
人通りの多い大通りを抜け、建物の間を縫うように駆けていく。何度も背後を振り返り、誰かの姿を探しては、焦ったように進路を変えた。
その視線の先に、追いすがる影が一つ。
男は舌打ちし、通りの角を乱暴に曲がった。
「くそっ、どこまでも追ってきやがって……!」
違法オークションの情報を貴族たちに流していたことが露見したのか。それとも、別の取引相手に切り捨てられたのか。
いずれにせよ、捕まるわけにはいかなかった。
大通りから外れ、細い路地へ。
さらに奥へ進むと、周囲から人の気配が消えていった。
男はようやく足を緩め、壁に手をついた。
「はあっ……はあっ……。撒いた、か……?」
息を整えながら、そっと背後を振り返る。
誰もいない。
ようやく撒いたのかもしれない。
そう思った瞬間、背後から奇妙な気配がした。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
足音は聞こえなかった。
それなのに、何かがいる。
獲物の逃げ道を塞ぎ、じっと機会をうかがう捕食者のような気配が。
「……誰だ?」
男が振り返ろうとした、そのとき。
「みーつけた」
すぐ背後から、少年の声がした。
男の目が見開かれる。
いつの間に。
そこに立っていたのは、先ほどまで大通りで追っていた少年だった。
ヴェルマリスは、まるでかくれんぼの相手を見つけた子どものように笑っていた。
「な、いつから……!」
「さあ? いつからだろうね」
少年の背後で、太い尾がゆっくりと揺れる。
硬質な節に覆われた尾。その先端には、鋭い針が備わっていた。
男の顔から血の気が引いた。
「まさか、お前……!」
「はい、捕まえた」
尾がしなった。
針が男の身体に触れた瞬間、男は短く呻き、その場に崩れ落ちた。
ヴェルマリスは倒れた男を見下ろし、気絶していることを確認する。
「よし。これで確保♪」
「……隊長」
路地の入口から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、ジャンがフードを下ろしながらこちらへ歩いてきていた。整った服装も落ち着いた足取りも、追跡を続けてきたとは思えないほど乱れていない。
ただし、その顔には、隠す気もないほどの呆れが浮かんでいた。
「また一人で突っ込んで困りますよ……」
「えー? ちゃんと捕まえたじゃん」
「そういう問題ではありません。こちらが包囲する前に飛び込まれたら、逃走経路の確保も周囲の警戒も意味がなくなるでしょう」
「でも、逃げられたら困るし」
「合図を待ってくださいと、何度申し上げたと思っているんですか」
「……三回?」
「もっとです」
ジャンは深々と息を吐いた。
ヴェルマリスは悪びれもせず、倒れた男を指差す。
「ほら、怪我もさせてないよ」
「その尾を使っておいて、よく言えますね……」
呆れながらも、ジャンは男の状態を確かめ、拘束の手配を部下に伝えた。
「この男が、貴族たちにオークションの情報を流していた人物です。ここから先は、組織へ連れ帰って事情を聞きましょう」
「うん。いろいろ知ってるといいね」
ヴェルマリスは路地の向こうを眺めた。
男は、ただ捕まるのを恐れていたのだろうか。
それとも、彼が口を割れば困る誰かがいるのだろうか。
今のところ、答えはない。
だからこそ、直接話を聞く必要があった。
「……そういえば、隊長」
「ん?」
男を連行する準備を進めながら、ジャンが思い出したように口を開いた。
「任務後に、セレナ様からお話があるそうです。帰り次第、いつもの中庭の温室に来てほしいとのことです」
「えっ、セレナ様が?」
ヴェルマリスの表情が、ぱっと明るくなった。
「うん、分かった! 任務が終わったらすぐ行く!」
先ほどまで面倒そうにしていた少年が、まるで別人のように弾んだ声を出す。
ジャンはその変わりように、呆れた顔のまま目を細めた。
「……また何かやらかしたんですか?」
「えーっ、なんでそうなるの?」
「心当たりがないのでしたら、なおさら不思議ですね」
「ひどいなあ!」
ヴェルマリスは頬を膨らませた。
けれど、すぐにその表情は明るく戻った。
セレナは、彼にとって特別な人だった。
幼い頃、居場所を失った自分を救い、名前を与え、今日まで育ててくれた人。厳しいことを言われる日もあれば、何も聞かずに傍にいてくれる日もある。
彼女の前では、組織の一員としての自分を少しだけ忘れられる。
だから、会えると聞くだけで嬉しかった。
「よーし、さっさと帰ろう!」
「その前に、報告書とこの男の拷問もあります」
「……え? えーっと…オレもいないといけないやつ…?」
「当たり前です。それと今回の独断行動についても、詳しく書いていただきます」
「げぇっ!ジャンのいじわるー!」
「結構です。さっさと戻りますよ、隊長」
ジャンは男を連行する部下たちに合図を送り、歩き出した。
ヴェルマリスも慌ててその後を追う。
いつもと変わらない、任務の終わり。
いつもと変わらない、帰り道。
その先で待つ温室が、今日はいつもより少しだけ特別な場所に思えた。
*
イヴェール家の敷地は、王都の喧騒から少し離れた場所にあった。
表向きには、エルビナ王国に仕える侯爵家の屋敷。その広い敷地の一角には、軍事組織の施設が設けられている。
しかし、屋敷の奥にある建物のすべてが、外部の人間に知られているわけではない。
公に知られた軍の施設とは別に、限られた者だけが出入りを許される区画がある。
ヴェルマリスが所属する組織の本拠地も、その一つだった。
そこには、表の仕事だけでは扱いきれない情報が集まる。
違法な奴隷売買。貴族の裏取引。人知れず姿を消した人々。
そして、ときには、国同士の争いに繋がるような秘密も。
任務の報告を済ませ、捕らえた男の身柄を組織の者に引き渡した頃には、日が傾き始めていた。
男は尋問の最中、次に行われる奴隷オークションの日程と場所を口にした。そして、最後に何かを言いかけた。
――おまえ……ザイル王国の……。
そこまでだった。
男はそれ以上、口を開こうとしなかった。
ヴェルマリスはその言葉が気になっていたものの、まずはセレナへの報告を済ませることにした。
ジャンに念を押されながら書類を提出し、ようやく解放された。
「では、私は別の報告に行きます。くれぐれも、温室へ向かう途中で寄り道しないように」
「しないって!」
「本当でしょうね……」
「もう、ジャンは心配性だな!」
ヴェルマリスは口を尖らせながらも、足取りは軽かった。
*
イヴェール家の屋敷、その中庭の奥。
ガラス張りの温室には、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。
整然と並ぶ植物の間に、落ち着いた色合いのソファーが置かれている。
セレナはそこに腰掛け、ゆったりと脚を組んでいた。
傍らには、彼女に仕える付き人が控えている。
「火をお願い」
「かしこまりました」
付き人が差し出した火に、セレナは手元のタバコを近づけた。
先端に小さな火が灯る。
彼女は静かに煙をくゆらせ、温室のガラス越しに庭を眺めた。
その表情はいつもと変わらず、穏やかだった。
けれど、机の上には数枚の書類が置かれている。そこに記された情報を確かめるように、時折、金色の瞳が細められた。
「ヴェルマリス様がお見えになりました」
付き人の声に、セレナはタバコを持つ手を軽く下ろした。
「そう。ありがとう。あとは私が」
付き人が一礼して温室を出ていく。
ほどなくして、扉の向こうから軽快な足音が聞こえてきた。
「セレナ様ー!」
扉が開くなり、ヴェルマリスが顔を覗かせた。
その顔には、隠しきれない嬉しさが浮かんでいる。
「お待たせしました!」
「あら、ヴェルマリス。おかえりなさい」
セレナは優しく微笑んだ。
「今日も頑張ったのね。こっちへいらっしゃい」
「はい!」
ヴェルマリスは弾むような足取りで近づくと、ソファーのそばで立ち止まった。
「セレナ様、今日は何のお話ですか?」
「ふふ。まずは座って。ずっと立っていたら疲れるでしょう?」
セレナは隣の席を軽く示した。
ヴェルマリスは嬉しそうに頷き、そこへ腰を下ろす。
彼にとって、セレナは恩人であり、母親のような存在だった。
幼い頃に居場所を失った自分を救い、名前を与え、ここまで育ててくれた人。彼女と話す時間は、今でもヴェルマリスにとって特別だった。
セレナはそんな彼の様子を見て、目元を和らげた。
「それで、今日の任務はどうだった?」
「ちゃんと捕まえましたよ。貴族たちにオークションの情報を流してた男です」
「そう。よくやったわ」
褒められたヴェルマリスは、どこか誇らしげに胸を張った。
「それで、尋問の最中に次のオークションの日程と場所を聞き出せました」
セレナの表情から、わずかに柔らかさが消えた。
「日程と場所……?」
「はい。男は次に行われるオークションについて知っていました。詳しい経緯はまだ調査中ですけど、少なくとも開催場所は分かりました」
「そう……。それは大きな手がかりね」
セレナはタバコを灰皿に置き、報告を促すようにヴェルマリスを見つめた。
「ほかには?」
「それが……」
ヴェルマリスは少しだけ眉を寄せた。
「男、最後に変なことを言ったんです」
「変なこと?」
「『おまえ……ザイル王国の……』って」
温室の中に、短い沈黙が落ちた。
ガラスの向こうでは、風に揺れた葉がかすかに擦れ合っている。
セレナはすぐには答えなかった。
先ほどまで浮かべていた微笑みは消えていない。けれど、その金色の瞳からは、先ほどまでの穏やかさが静かに引いていた。
「……その先は?」
「言いませんでした。いや、言えなかったのかもしれません。何かを言いかけたところで、それきり黙っちゃって」
「そう」
セレナは灰皿に置いたタバコを見つめた。
ザイル王国。
その名が、ただの偶然で口にされたとは思えなかった。
違法オークションの日程と場所。そして、貴族たちに情報を流していた男が最後に残した言葉。
それらが何を意味するのか、今の段階では断定できない。
けれど、見過ごすには十分すぎる情報だった。
「ヴェルマリス」
「はい?」
「その男の身柄は、引き続き慎重に扱ってちょうだい。尋問の記録も、関係者の名前も、すべて残しておいて」
「分かりました」
「それから、オークションの開催場所についても、詳しく調べてほしいの。表に出ている情報だけではなく、誰が会場を手配し、誰が利益を得るのかもね」
セレナの声は穏やかだった。
しかし、そこには有無を言わせない強さがあった。
「了解です。オレたちで調べます」
ヴェルマリスは真剣な顔で頷いた。
セレナはその様子を見て、再び微笑んだ。
「頼りにしているわ」
その言葉に、ヴェルマリスの表情がぱっと明るくなる。
「任せてください!」
先ほどまでの緊張は、少しだけ和らいだ。
けれど、セレナの視線は机の上の書類へ戻っていた。
ザイル王国。
その名を聞いたとき、彼女の胸に浮かんだのは、単なる疑念だけではなかった。
今まで別々に見えていた出来事が、どこかで繋がり始めている。
そう感じていた。
そして、その先に何が待っているのかを確かめるためには、まだ集めなければならない情報があった。
「……セレナ様?」
ヴェルマリスの声に、セレナは顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや、また何かあったら、すぐ報告しますね」
「ええ。待っているわ」
セレナは優しく答えた。
ヴェルマリスは満足そうに笑い、ソファーから立ち上がった。
「じゃあ、さっそく調べてきますね!」
「ええ。でも、無茶はしないこと。あなたはすぐに先走るのだから」
「うっ……ジャンにも同じこと言われました」
「あら、ジャンの言うことはちゃんと聞いてあげてちょうだい?」
セレナはくすりと笑い、灰皿にタバコを押しつけた。
「それと、今回の件は慎重に進めて。オークションの情報を流していた男が、なぜザイル王国の名を口にしたのか……私も気になっているの」
「はい。次のオークションについて、もう少し詳しく調べてみます」
「頼りにしているわ、ヴェルマリス」
「任せてください!」
ヴェルマリスは嬉しそうに頷くと、温室を後にした。
扉が閉まる直前、セレナは彼の背中を見送った。
その表情から、ゆっくりと笑みが消えていく。
「……ザイル王国、ね」
小さく呟き、机の上に置かれた書類へ目を落とす。
そこには、ここ数年の奴隷売買に関する記録と、最近になって浮かび上がったいくつかの取引先の名が記されていた。
まだ、確かな証拠はない。
けれど、今回の事件は単なる違法オークションでは終わらないかもしれない。
セレナは付き人を呼び、書類を一枚手渡した。
「この取引先について、もう一度調べ直してちょうだい。表向きの商売だけでなく、裏で誰と繋がっているのかも」
「かしこまりました」
「それから、この件はまだ他言しないように。確証が得られるまでは、こちらから動いていることを知られたくないわ」
付き人は一礼し、温室を出ていった。
静けさが戻った温室に、しばらくの間、時計の針の音だけが響いていた。
セレナは手元の書類に視線を落としたまま、先ほどヴェルマリスから聞いた話を反芻していた。奴隷オークションの情報。そして、男が口にしかけたザイル王国の名。
偶然と片づけるには、引っかかるものが多すぎる。
そのとき、温室の扉が静かに開いた。
「……まだ仕事をしていたのか」
聞き慣れた声に、セレナは顔を上げた。
「あら、あなた。おかえりなさい」
入口に立っていたのは、夫のルカだった。彼はセレナの表情を見て、すぐに何かあったのだと察したらしい。挨拶もそこそこに、彼女の隣に腰を下ろした。
「何か分かったのか?」
「ええ。まだ確証はないけれど……少し気になる情報が入ったの」
セレナは手元の書類を閉じ、ルカへと視線を向けた。
「次の奴隷オークションに、ザイル王国が関わっている可能性があるわ」
ルカの眉がわずかに動いた。
「ザイル王国か……。最近、あの国の動きはどうにも不穏だな」
「ええ。今回の件だけなら、まだ様子を見ることもできたのでしょうけれど……」
セレナの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「二年前のこともあるわ」
その言葉を聞いたルカは、すぐには返事をしなかった。
温室の窓から差し込む夕暮れの光が、二人の間に長い影を落としている。
「……クロエのことか」
「ええ」
セレナは穏やかな微笑みを浮かべようとした。けれど、その表情はいつものように自然には作れなかった。
二年前、組織が襲撃されたあの日。
炎に包まれた建物。飛び交う怒号。仲間を逃がすために走り回る中で、セレナは娘の姿を見失った。
捜索を続けても、手がかりはほとんど見つからなかった。誰が連れ去ったのか、どこへ連れていかれたのか。それすら分からないまま、二年という月日だけが過ぎていた。
「もう二年だな」
ルカの声には、隠しきれない苦悩が滲んでいた。
「……ええ。あの子が今、どこで何をしているのか。ちゃんと食べられているのか、誰かに傷つけられていないか……考えない日はないわ」
セレナは膝の上で指を組んだ。
組織の長として、どれほど冷静に振る舞えても。多くの人間を救うために決断を下せても。娘のことだけは、どうしても割り切れなかった。
「君のせいじゃない」
ルカが静かに言った。
「分かっているわ。……頭ではね」
セレナは小さく息を吐き、窓の向こうへ目を向けた。
「もし今回のオークションが、あの子の失踪とつながっているのなら……今度こそ、手がかりをつかみたい」
「私も同じ気持ちだ。だが、焦って君まで危険にさらすわけにはいかない」
「もちろん。証拠もないのに動くつもりはないわ」
そう答えたセレナの目には、母親としての不安と、組織を率いる者としての決意が同居していた。
「まずは事実を確かめる。クロエのためにも、そして……これ以上、同じ目に遭う子が増えないように」
ルカは彼女の手にそっと自分の手を重ねた。
「あの子は君に似ている。きっと簡単には諦めていないさ」
「ふふ……そうね。あの子、昔から頑固だったもの」
セレナの口元に、ほんのわずかな笑みが戻った。
けれど、その目はまだ、遠くにいる娘を探していた
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。
たまには星を眺めるだけの時間もいいかもしれませんね。




