第十六話 「十年分の話をしよう」
話していると空が赤く染まり始めていた。
「隊長そろそろ帰りましょう。」
ジャンが楊さんたちに申し訳なさそうにヴェルマリスに言う。
「うぅ…」
ヴェルマリスは離れるのが嫌なのだろう帰るのを拒んでいる。
「おや もうそんな時間なのかい?君たちが良ければ泊まっていくといいよ」
楊さんがその方がいいだろうとリーに茶目っ気に言うと
「そうだよ!泊まっていきな」
「だってさジャン!」
「分かりましたよ…明日帰ると連絡しておきます」
「ありがとうジャン!」
ジャンは世話が焼けると言いつつ内心は嬉しそうに連絡しに行った。
*
その日の夜。
ヴェルマリスは、リーの部屋にいた。
再会したばかりの弟を一人で帰すのは惜しかったのか、リーが自分の部屋に泊まっていくよう勧めたのだ。
一方、ジャンは宿に戻るつもりだった。そこには、先に宿を取っている隊員二人もいる。
「私は宿に戻りますので、お二人はゆっくり過ごしてください」
「客間なら空いているぞ。わざわざ外に泊まりに行く必要もないだろう」
「いや……そういうわけには……」
「遠慮するな! リーもこの屋敷の別館にいるんだ。主人が近い方がいいだろ」
楊はそう言ってから、ふと思い出したように手を打った。
「そうだ、ジャン殿。今夜はどうだ、一緒に酒でも飲まないか?」
「……お酒ですか?」
「ああ。せっかくこうして縁ができたんだ。君ともゆっくり話してみたいと思っていたんだよ」
「……楊さんが飲みたいだけでしょう?」
横からリーが呆れたように口を挟んだ。
「おや、そんなことはないぞ?」
「じゃあ、ジャンさんがいなくても飲むんですか?」
「もちろん!」
「ほら、やっぱり」
即答した楊に、リーは呆れたようにため息をついた。
「ははは! まあ、そう言うな。酒を飲む口実は多い方がいいだろう?」
楊は悪びれる様子もなく笑った。
突然の誘いに、ジャンは困ったように眉を下げた。
「お気持ちはありがたいのですが、宿に戻れば待機中の隊員二人が待っていますし……」
「ならば、その二人も連れてくればいい!」
「え?」
思いがけない返事に、ジャンは目を瞬かせた。
すると、隣で話を聞いていたヴェルマリスが、あっさりと口を挟んだ。
「え? 行ってきたらいいじゃん! カールとエマの二人も誘ってさ!」
「隊長……。そんな簡単におっしゃいますが」
「いいじゃん。せっかく楊さんが誘ってくれてるんだし!」
「そうそう! せっかくなら、皆で楽しもうじゃないか!」
ヴェルマリスの言葉に、楊もすっかり乗り気になった。
「そうだな……。それなら、陳昊然のところでも行くか!」
「……陳昊然さんのところ、ですか?」
「ああ。あそこなら酒も食事も揃っている。話をするにも都合がいいだろう」
「楊さん、あそこは遊郭でしょう?」
リーがすかさず突っ込んだ。
「ははは! 細かいことは気にするな!」
「細かくないですよ……」
リーは深々とため息をついた。
ジャンはしばらく考え込んでいたが、楊の勢いとヴェルマリスの期待に満ちた視線に、とうとう折れた。
「……分かりました。では、カールとエマにも声をかけてきます」
「よし! そうと決まれば、早速行こうじゃないか!」
楊は満足そうに笑った。
その様子を見て、リーは小さく肩をすくめる。
「……ジャンさん、飲みすぎないように気をつけてくださいね」
「努力します」
「それ、あんまり信用できない返事だなあ」
ヴェルマリスが笑うと、ジャンは何とも言えない顔で隊長を見つめた。
「……隊長。そもそも、誰がこの話を大きくしたと思っているんですか」
「えー? 僕はいいことをしただけだよ?」
「そういうことにしておきます」
ジャンは諦めたように息を吐いた。
こうして、ジャンはカールとエマを連れて、楊とともに陳昊然の店へ向かうことになった。
*
リーの部屋は、ヴェルマリスが想像していたよりも落ち着いた雰囲気だった。
部屋の中を見回していたヴェルマリスは、ふとリーに目を向ける。
「……なんか、不思議だね」
「何が?」
「こうしてリー兄ちゃんと同じ部屋にいること」
ヴェルマリスは小さく笑った。
「ずっと会いたかったのに、いざ会えたら、なんだか夢みたいでさ」
「夢なら、もう少し嬉しそうな顔をしてくれてもいいんじゃないか?」
リーが冗談めかして言うと、ヴェルマリスは慌てて顔を上げた。
「嬉しいよ! すごく嬉しい。ただ……」
「ただ?」
「リー兄ちゃんが、思ってたより大人っぽくなってたから」
「……それは、褒めてるのか?」
「褒めてるに決まってるだろ。昔はもっと、僕のことを追いかけ回してたくせに」
「お前が勝手に走り回ってただけだろ」
「そうだっけ?」
「そうだよ。転んで泣いたのも、お前だ」
「……それは覚えてないなあ」
「都合の悪いことだけ忘れるんだな」
リーは呆れたように言ったが、その口元には笑みが浮かんでいた。
ヴェルマリスもつられて笑う。
ほんの短いやり取りだった。
けれど、まるで十年前の続きのようだった。
リーはしばらく弟の顔を見つめていた。
「……俺もだよ」
その声は、先ほどまでより少し低かった。
「何度も、お前が生きている夢を見た。目が覚めるたびに、また手がかりを探さなきゃいけないって思った」
「……リー兄ちゃん」
「だから、今でも時々信じられなくなる。こうしてお前が目の前にいることが」
リーの手が、ヴェルマリスの髪を優しく撫でる。
「……大きくなったな」
「もう子どもじゃないよ」
ヴェルマリスは少し照れたように言った。
「そうだな。昔は、俺の後ろに隠れてばかりだったのにな」
「それ、いつの話?」
「お前が小さかった頃の話だよ」
「今だって兄ちゃんの方が大きいじゃないか」
ヴェルマリスが少し不満そうに言うと、リーは改めて弟の姿を見下ろした。
「ははっ、そうだったな。背はまだ俺の方が高いか」
「だから、さっきから僕のことを子ども扱いしてるの?」
「そういうわけじゃない」
「してるよ」
「してないって」
「してるってば」
ヴェルマリスが頬を膨らませると、リーは堪えきれずに笑った。
「でも、昔よりはずっと大きくなった」
「それはそうだけど……」
「俺から見れば、まだ弟だよ」
「……それは、仕方ないか」
ヴェルマリスは少し照れたように視線を逸らした。
リーの手が、ヴェルマリスの髪を優しく撫でる。
ヴェルマリスは、何も言わずにその手を受け入れた。
幼い頃、兄たちと過ごした時間は、もう遠い昔のことだ。
それでも、こうして頭を撫でられると、忘れていた感覚が少しずつ蘇ってくる。
「……僕も、ずっと会いたかった」
ようやく口にした言葉は、自分でも驚くほど素直なものだった。
リーは目を細めた。
「うん。……会えてよかった、本当に」
「……うん」
ヴェルマリスは頷いた。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「でも、リー兄ちゃん」
「ん?」
「さっきから、子どもの頃の話ばっかりじゃない?」
「仕方ないだろ。お前のことを思い出そうとすると、泣き虫だった頃のお前しか出てこないんだよ」
「泣き虫じゃない」
「泣き虫だった」
「違うって」
「じゃあ、今ここで泣いてみるか?」
「なんでそうなるのさ!」
ヴェルマリスが声を上げると、リーは堪えきれずに笑った。
「……やっぱり、変わってないな」
「リー兄ちゃんだって、全然変わってないよ」
「俺が?」
「うん。すぐ僕をからかうところとか」
「それは、お前がからかいやすいからだ」
「ひどいなあ」
そう言いながらも、ヴェルマリスの顔には笑みが浮かんでいた。
その後、二人は夜が更けるまで話をした。
幼い頃の思い出。別れた日のこと。そして、それぞれが過ごしてきた十年間。
話したいことは、いくらでもあった。
けれど、どれだけ言葉を重ねても、失われた時間をすべて埋めることはできない。
それでも、これからは違う。
もう、互いの生死さえ分からないまま過ごす必要はないのだ。
「……また、会いに来てもいい?」
ヴェルマリスが尋ねると、リーは少しだけ驚いた顔をした。
「当たり前だろ」
「でも、迷惑じゃない?」
「迷惑なら、最初から泊めたりしない」
「それもそうか」
ヴェルマリスは納得したように頷いた。
リーは少しだけ照れたように視線を逸らす。
「ここがお前の家だとは言えないけど……俺がいるんだから」
「……うん」
「だから、いつでも来いよ。ヴェル」
「本当に?」
「何度も言わせるなよ。兄ちゃんが待ってるって言ってるんだから」
「……分かった」
ヴェルマリスは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、また来るね。今度はもっとゆっくり話そう」
「ああ。今度は、お前が泣き虫だった頃の話をもっとしてやる」
「だから、泣き虫じゃないってば!」
ヴェルマリスが抗議すると、リーはまた笑った。
その笑い声を聞きながら、ヴェルマリスも笑う。
今夜だけは、明日のことを考えずにいよう。
そう思いながら、彼はもう一度、目の前にいる兄の顔を見つめた。




