第十七話 「また会う日まで」
翌朝。
ヴェルマリスたちはエルビーナ王国へ戻るため、楊の屋敷を後にすることになった。
「もう帰るのか。せっかく再会できたんだから、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
リーは少し残念そうに言った。
「僕だって、もっとリー兄ちゃんと一緒にいたいよ。でも、こっちで調べなきゃいけないこともあるから」
「そうだったな。俺もルーのことを調べ続ける。楊さんにも協力してもらえることになったし、今までよりは手がかりを見つけやすくなるはずだ」
「うん。僕もエルビーナで調べてみる。何かわかったら、すぐに連絡するね」
「分かった。こっちも何か見つけたら知らせるよ」
そう言って、リーはヴェルマリスの頭にぽんと手を置いた。
「……大きくなったな、ヴェル」
「えっ、また?」
ヴェルマリスが思わず声を上げると、リーは楽しそうに笑った。
「だって、俺の記憶の中じゃ、まだ小さかったからな」
「もう十年も経ってるんだよ?」
「そうだな。……本当に、長かった」
リーの声が、ほんの少しだけ静かになった。
十年という時間は、二人の間に埋めきれない空白を残している。それでも、こうして再び顔を合わせ、言葉を交わせることが、どれほど嬉しいことなのか。
ヴェルマリスには、まだうまく言葉にできなかった。
「……ところで、ジャンたちは大丈夫なの?」
ふと、ヴェルマリスは少し離れたところに立つジャンを振り返った。
いつもなら背筋を伸ばし、涼しい顔をしているはずの彼が、今朝は壁に片手をつき、こめかみを押さえていた。
その隣では、カールがうなだれ、エマも眉間にしわを寄せている。
「……うっ、頭が……」
カールが小さくうめいた。
「カール、声が大きい……。響くから静かにして……」
エマは額を押さえながら、普段のしっかりした姿からは想像できないほど弱々しい声を出した。
「酒つよのエマまで!?」
「カール、あなたも十分ひどい顔をしているわよ……」
「いやー……。あんなに強い酒だとは思わなかったっす……」
カールは苦しそうに息を吐いた。
エルビーナ王国ではワインやビールなどの醸造酒が主流で、普段から飲む酒も比較的口当たりのよいものが多い。
それに対して、リーシャン帝国では蒸留酒が好まれる。昨夜振る舞われた酒は度数が高いうえに辛口で、エルビーナの酒に慣れた三人には、思いのほか強烈だったのだ。
楊に勧められるまま杯を重ねた結果が、これだった。
酒には強いはずのカールも、普段は自分の酒量を心得ているエマも、今朝ばかりはすっかり参っている。
そして、三人の中で最も被害が大きそうなのがジャンだった。
「……問題ありません」
「ほんとに?」
「本当です」
「ふーん……。でも、ジャンもカールもエマも、みんな二日酔いじゃん」
「隊長、俺はまだ若干いけるっす……」
「カール、無理して喋らなくていいから……」
「……エマの言うとおりです。今は静かにしていてください」
ジャンがいつもの調子で注意したものの、声には普段ほどの張りがなかった。
ヴェルマリスは心配そうに三人を見比べた。
「そんなに強いお酒だったの?」
「ええ……。エルビーナのワインとは、まるで別物でした」
エマが何とか顔を上げて答える。
「口当たりに油断していたら、思った以上に強くて……。途中から、杯を重ねるのを止めるべきでしたね」
「いや、楊さん、めっちゃ楽しそうに注いでくるんすよ……。断るのも悪いかなーって……」
「カール、あなた、途中から自分からおかわりしていたでしょう……」
「そ、それは……場の空気ってやつっす!」
「言い訳になっていません」
エマがきっぱりと言い切った。
そのやり取りを聞いていたリーは、額に手を当てた。
「……楊さん、いったいどれだけ飲ませたんですか?」
「ははは! 飲ませたというより、三人とも思いのほか付き合いがよくてな!」
屋敷の奥から現れた楊が、豪快に笑った。
「最初は遠慮していたんだが、話してみればなかなか面白い人たちだった。つい話が弾んでしまってな!」
「なるほど。それで、この状態ですか……」
リーは呆れたようにため息をついた。
「いや、楊さん。ジャンさんは明日も仕事があると言っていたでしょう」
「もちろん覚えていたとも! だから、ちゃんと頃合いを見て切り上げたぞ」
「その頃合いが遅かったんじゃないの?」
ヴェルマリスが横から口を挟む。
「隊長まで……」
ジャンは困ったように眉を下げた。
「まあ、次に来たときは、もっとゆっくり話そうじゃないか、ジャン殿! カール殿、エマ殿もな!」
「……次は、もう少し加減していただけると助かります」
ジャンが苦笑交じりに答える。
「俺も、次は水を挟むっす……」
カールが弱々しく手を挙げた。
「私は、最初から飲む量を決めておきます……」
エマも反省した様子で頷く。
「ははは! 次の楽しみが増えたな!」
「……楊さん、まったく反省していませんね」
リーは呆れながらも、どこか楽しそうに笑った。
「お! 次もカールとエマも来るのか?」
リーが尋ねると、ジャンは頭を押さえながら答えた。
「ええ。隊長が一人で来ると、何をしでかすか分かりませんから」
「確かにな」
リーは楽しそうに笑った。
「ちょっと! 僕だってちゃんとできるよ!」
ヴェルマリスは不満げに口を尖らせる。
「隊長、そこは否定できないっすね……」
「カールまで!?」
「……否定できる材料がありませんから」
エマが真顔で付け加えた。
「エマまで!」
ヴェルマリスが抗議すると、リーはとうとう声を上げて笑った。
その笑い声に、ジャンたちもつられて小さく笑う。
もっとも、三人は笑うたびに頭に響くのか、すぐに顔をしかめていたが。
「……ジャン、本当に帰りは大丈夫?」
ヴェルマリスが改めて尋ねる。
「ええ。馬車で休ませてもらいます」
「カールもエマも、無理しないでね」
「お気遣いどうもっす……」
「ありがとう、隊長。帰ったら少し休ませてもらうわ」
エマが微笑んだ。
別れを惜しみながらも、いつまでもここに留まるわけにはいかない。
ヴェルマリスはリーへと向き直った。
「それじゃあ、リー兄ちゃん。また来るね!」
「ああ。いつでも来い」
リーはそう答えると、ヴェルマリスの頭をくしゃりと撫でた。
「ルーも一緒だといいな」
「……うん!」
ヴェルマリスは大きく頷いた。
「絶対、三人で会おうね!」
「ああ。約束だ」
リーは穏やかに笑った。
ヴェルマリスはもう一度手を振ると、ジャン、カール、エマとともに馬車へ乗り込んだ。
馬車が動き出しても、しばらくの間、リーと楊はその場から見送っていた。
*
馬車が屋敷を離れてしばらくすると、ヴェルマリスは向かいに座る三人を見回した。
ジャンは目を閉じ、片手でこめかみを押さえている。
カールは座席にもたれ、ぐったりと天井を見上げていた。
エマは背筋を伸ばそうと努力しているようだったが、時折、辛そうに眉を寄せている。
「……ねえ、みんな、本当に大丈夫?」
「隊長……。心配してくれるのはありがたいんすけど……」
カールは言葉を切り、そっと目を閉じた。
「今、喋ると余計に気持ち悪くなるっす……」
「ご、ごめん!」
「いえ……隊長のせいではありませんから」
エマが小さく息を吐く。
「ただ、馬車の揺れが思った以上に堪えますね……」
「……昨夜の酒が、まだ残っているようです」
ジャンも目を閉じたまま答えた。
「いつもより元気がないんだもん。三人とも、あんなに飲むなんて思わなかったよ」
「……楊さんとのお酒の席が、あそこまで長引くとは思いませんでした」
ジャンはこめかみを押さえ、小さく息を吐いた。
「でも、楊さんと仲良くなれたんでしょ?」
「……まあ、そうですね。話してみると、思っていたより気さくな方でした」
「よかったじゃん!」
「ええ。ただ、次にお会いするときは、もう少し加減していただきたいものです」
「次も飲むつもりなんだ?」
「……話の流れ次第です」
「ふーん?」
ヴェルマリスがにやにやすると、ジャンは呆れたように目を細めた。
「隊長。人のことをからかうのは、そのくらいにしてください」
「はーい」
そう返事をしてから、ヴェルマリスは窓の外へ視線を移した。
遠ざかっていく街並みを眺めながら、そっと首元のネックレスに触れる。
「……会えてよかったな」
ぽつりとこぼれた声に、ジャンも表情を和らげた。
「ええ。本当に」
「リー兄ちゃん、ちゃんと生きてた。僕のことも覚えててくれた」
言葉にするたびに、胸の奥から喜びが込み上げてくる。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた。
それなのに、リーは目の前にいて、昔と同じように笑ってくれた。
「……夢みたいだった」
「夢ではありませんよ。きちんとお会いできました」
「うん」
ヴェルマリスは小さく頷いた。
そして、今度はまっすぐ前を向く。
「……次は、ルー兄ちゃんだね」
「そうですね。リーさんも、ずっと探していらっしゃるのでしょう」
「うん。リー兄ちゃん、ルー兄ちゃんのことをずっと探してたんだって。僕が見つかったことも、まだ信じられないみたいだった」
「それだけ長い間、手がかりがなかったのでしょう」
「……今度は、三人で会いたいな」
その声には、期待と不安が入り交じっていた。
ジャンは、ヴェルマリスが幼い頃から何度も兄たちの話をしていたことを思い出した。眠る前に思い出を語ることもあれば、ふとした瞬間に寂しそうな顔をすることもあった。
そんな彼が、ようやく一人の兄と再会できたのだ。
「きっと見つけましょう。ただし、焦って無茶をするのは禁止ですよ」
「……分かってるって」
「本当ですか?」
「本当!」
即答するヴェルマリスに、ジャンは小さく息を吐いた。
「なら、結構です」
そう言いながらも、ジャンの表情はいつもより少し柔らかかった。
ヴェルマリスが兄と再会できたこと。それは、彼を長く見守ってきたジャンにとっても、心から嬉しい出来事だった。
だからこそ、今度こそ兄弟三人が揃う日まで、彼を無事に連れて帰らなければならない。
ジャンは窓の外へ目を向けた。
エルビーナに戻れば、報告と新たな調査が待っている。
リーシャンで得た情報が、どこまで真実につながるのかは分からない。それでも、ようやく掴んだ糸口を手放すわけにはいかなかった。
――まずは、この揺れる馬車の中で、少しでも休むことが先決だった。




