第十五話 「妙な話」
しばらくして、ようやく二人が離れると、リーは名残惜しそうにヴェルの肩へ手を置いた。
「……本当に、大きくなったな」
「さっきも言ってたよ、それ!」
「いや、だってなあ。最後に会ったときは、まだこんなに小さかったんだぞ?」
リーは自分の胸のあたりに手を置き、当時のヴェルの背丈を示した。
「そんなに小さくないよ!」
「そうか? 俺の記憶じゃ、すぐ転んで泣いてたけど」
「それ、いつの話!? もう覚えてないよ!」
「ははっ、そうだったか」
リーは楽しそうに笑った。
ヴェルもつられて笑う。十年という時間があったはずなのに、こうして話していると、まるで昨日まで一緒に暮らしていたような気がした。
けれど、ふとした瞬間に思い出す。
自分たちは、十年間も離れていたのだ。
「……ねえ、リー兄ちゃん」
「ん?」
「今まで、どこにいたの?」
リーの笑みが、ほんの少しだけ静かになった。
「……リーシャン帝国だ。競売で買われてな。その後は、楊さんのところで暮らしてる」
「オークション……」
ヴェルの表情が曇る。
自分が捕らえられたときの記憶が、胸の奥をかすめた。
「そっか……。リー兄ちゃんも、捕まってたんだね」
「ああ。でも、今は大丈夫だ。楊さんにはよくしてもらってるし、仕事だって任せてもらってる」
リーは安心させるように笑った。
「それに、今はこうしてお前にも会えたからな」
「……うん」
ヴェルは小さく頷き、兄の手を握った。
聞きたいことはまだたくさんある。けれど、今は無事でいてくれたことが何より嬉しかった。
そのとき、リーの表情を見ていた楊が口を開いた。
「リー、お前がずっと弟を探していたのは知っていたが……まさか、こんな形で会えるとはな」
「俺も驚いてます。正直、まだ夢みたいですよ」
「夢なら、あとで起こしてやろうか?」
「やめてくださいよ、楊さん。せっかく会えたのに」
「ははっ、冗談だ」
楊の笑い声に、客間の空気が少し和らいだ。
しかし、ヴェルマリスはふと、何かを思い出したように顔を上げた。
「……ねえ、リー兄ちゃん」
「どうした?」
「ルー兄ちゃんは?」
その名前を口にした途端、リーの笑顔がゆっくりと消えた。
ヴェルは兄の顔を見つめる。
「ルー兄ちゃんも、どこかで生きてるんだよね?」
リーはすぐには答えなかった。
自分だって、知りたかった。ルーは今、どこで何をしているのだろう。あの日からずっと探しているのに、いまだに手がかりは少ない。無事なのか、それとも――。
けれど、確かなことは何も知らない。
「……ごめんな、ヴェル。俺も、今どこにいるのかはわからない」
ヴェルの指先が、わずかに強張った。
「そっか……」
「でも、何も諦めたわけじゃない。俺もずっと探してたんだ。今度は一緒に探そう」
リーは弟の目をまっすぐに見つめた。
「絶対に、見つけよう」
ヴェルは一度唇を引き結んだ。それから、ゆっくりと頷いた。
「……うん。一緒に探そう、リー兄ちゃん」
二人のやり取りを、ジャンは少し離れた場所から見守っていた。
再会を喜ぶ二人の姿に、胸の奥が温かくなる。
よかった。本当に、よかった。
ヴェルがずっと探していた兄に、ようやく会えた。
それでも、ジャンは知っている。この少年は、一人の大切な人を見つけたからといって、残された人を諦めるような性格ではない。
きっとこれからも、危険な場所へ飛び込もうとするだろう。
「……隊長」
「ん? なに、ジャン?」
「今後の調査については、私にも必ず相談してください。独断で動くのは禁止です」
「えー、今その話?」
「今だからです」
ジャンがいつもの調子で言うと、リーが吹き出した。
「ははっ! ヴェル、お前、相変わらずなんだな」
「リー兄ちゃんまで!」
ヴェルは頬を膨らませたが、その顔には笑みが戻っていた。
ジャンはそんな三人の様子を見ながら、そっと息を吐いた。
これから先、何が待っているのかはわからない。
それでも、ヴェルが一人で背負わなくていいものが増えた。
それが何より、嬉しかった。
しばらくして、リーは再び口を開いた。
「……ただ、ルーについて、一つだけ覚えていることがある」
ヴェルは顔を上げた。
「覚えてること?」
「ああ。競売のとき、ルーだけは先に取引先が決まっていたんだ。俺たちとは別の場所へ送られることになっていたらしい」
「先に……?」
「ああ。どこへ行ったのかまではわからなかった。俺も、何もできなかったんだ」
リーは一度、視線を落とした。
あのとき、ルーがどんな顔をしていたのか。最後に何を言ったのか。今でも鮮明に思い出せることがある。
それでも、連れていかれる弟を追うことはできなかった。
「それからずっと、行き先を考えてた。エルビーナか、ザイルか、アラビアの富裕層か……。それと…戦闘奴隷として、どこかへ送られた可能性もある」
「……じゃあ、ルー兄ちゃんは今もどこかで……」
「生きてると信じてる。だから探してきた」
リーはヴェルの顔を見つめた。
「お前がエルビーナにいたってわかった今、俺はザイルかアラビアを優先して調べるべきだと思ってる。もちろん、まだ決まったわけじゃないけどな」
「うん……。俺も探す。今度はリー兄ちゃんと一緒に」
ヴェルは顔を上げた。
今度こそ、二人で探せる。
それだけで、これまで一人で抱えてきた不安が少し軽くなった。
話を聞いていた楊が、腕を組んだまま口を開いた。
「ザイル王国か……。実は、私も少し気になっていることがある」
リーが楊へ顔を向ける。
「楊さんも?」
「ああ。取引相手の一つだが、あの国は二年ほど前から妙に様子が変わってきていてね。以前なら問題なく進んでいた話にも、妙な条件がつくようになった。何かを急いでいるようにも見える」
「それ、奴隷商との取引にも関係してるんですか?」
「そこまではわからない。だからこそ、確かめたいんだ」
楊はリーを見た。
「お前の頼みでもあるしな。私も、ザイルが何を企んでいるのか知っておきたい」
リーは一瞬驚いたあと、安堵したように笑った。
「ありがとうございます、楊さん。助かります」
「礼はまだ早い。何が出てくるかもわからないんだからな」
「それでも、楊さんなら何かつかめると思ってますよ」
「おや、ずいぶん買ってくれるじゃないか」
「そりゃあ、長い付き合いですから」
リーがにっと笑うと、楊も愉快そうに目を細めた。
そのやり取りを見ていたヴェルは、二人が信頼し合っていることを感じ取った。
楊なら、兄と一緒に調査を進められるかもしれない。
そのとき、楊は何かを思い出したように顎へ手を当てた。
「そういえば、ザイルとの取引で妙な話を耳にしたことがある」
「妙な話?」
「アラビアの土地を欲しがっている、という話だ。国境を広げるためらしいが、詳しい事情までは聞けなかった」
ヴェルとリーは顔を見合わせた。
「それに、もう一つ。エルビーナの少女を確保した、という物騒な話もあった」
「……エルビーナの少女?」
ヴェルの表情が変わった。
楊は頷いた。
「ただ、名前までは知らない。どんな少女なのかも、今どこにいるのかもわからない。取引の席で耳にしただけだからな」
その場にいた誰も、すぐには口を開かなかった。
エルビーナの少女。
それだけでは、何も確かなことは言えない。
けれど、ヴェルの脳裏には、二年前に行方不明になったクロエの姿が浮かんでいた。
彼は表情を変えないまま、ヴェルの様子を見守った。
「……その話、もう少し詳しく調べられませんか?」
ヴェルが尋ねると、楊は静かに頷いた。
「できる限り調べてみよう。ただし、まだその少女が誰なのかはわからない。期待しすぎないほうがいい」
「うん。わかってます」
ヴェルは頷いた。
まだ、クロエだと決まったわけではない。
それでも、手がかりが見つかったのなら、確かめずにはいられなかった。
確証はない。手がかりと呼ぶには、あまりにも曖昧だ。
それでも、何もなかった場所に、小さな糸口が生まれた。
ルーの行方も。
ザイル王国の思惑。
そして、失踪した少女。
それぞれ別の問題に見えていたものが、少しずつ同じ場所へとつながり始めていた。




