第十三話 「再会」
楊の屋敷に着くと、ヴェルマリスとジャンは客間へと通された。
「楊さん、連れてきました」
案内役の男がそう告げると、奥から一人の青年が顔を出した。
「お客さんって、この二人ですか?」
青年はそう言いながら客間へ入ってくる。長身で、すらりとした体つき。落ち着いた足取りに、どこか人懐こい笑みを浮かべていた。
「そうだ。リー、少し時間をもらえるか?」
「もちろんです。……その前に、楊さん。今日の仕事、これで全部ですよね?」
「おや、まだ何かあったかな?」
「その言い方、絶対まだありますよね?」
リーが疑わしげに目を細めると、楊は楽しそうに笑った。
「話が早くて助かる」
「やっぱり! もう、あとでちゃんとお茶をご馳走してくださいよ。とっておきのやつ」
「わかった、約束しよう」
いつもの調子で軽口を交わしながら、リーは客人へと視線を向けた。
そして――その瞬間、笑みが止まった。
目の前にいる少年。
淡い髪色。見覚えのある顔立ち。記憶の中で何度も思い描いた姿より、ずっと大きくなっている。それでも、間違えるはずがなかった。
「……ヴェル?」
思わず、声が漏れた。
少年もまた、青年の顔を見つめていた。
目を見開き、息を呑む。その表情が、ゆっくりと信じられないものを見たような驚きへ変わっていく。
「……リー、兄ちゃん?」
その呼び声を聞いた途端、リーの中で張り詰めていた何かが切れた。
「ヴェル……!」
信じたかった。ずっと会いたかった。けれど、目の前にいるのが本当に弟なのか、十年もの時間を隔てた今になって、どうしても確信が持てなかった。
そんな迷いを吹き飛ばすように、ヴェルマリスが駆け寄ってくる。
「リー兄ちゃん!」
リーは反射的に両腕を広げ、飛び込んできた弟を強く抱きしめた。
「……っ、ヴェル……! 本当に、お前なのか……!」
「そうだよ! 俺だよ、リー兄ちゃん!」
ヴェルマリスもまた、リーの背中に腕を回した。離れたくないとでもいうように、ぎゅっと服を握りしめる。
「会いたかった……! ずっと、ずっと探してたんだ!」
「俺もだ……! 俺も、ずっと……!」
リーは弟の頭に手を置き、何度もその髪を撫でた。顔を見て、肩を抱いて、確かめるように何度も名前を呼ぶ。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた。
生きているのかさえわからなかった。
それなのに、今、腕の中にいる。
「大きくなったな、ヴェル……」
「リー兄ちゃんだって、すっごく大きくなってる!」
涙をこらえながら笑うヴェルマリスに、リーもようやく笑みを返した。
「ははっ、そりゃ十年も経てばな。……でも、そうか。お前、本当に生きてたんだな」
「うん!」
ヴェルマリスは首元から、ずっと大切に持っていたネックレスを取り出した。
「これも、ちゃんと持ってたよ。リー兄ちゃんがくれたやつ!」
それを見たリーの目が、また大きく見開かれる。
「……まだ持っててくれたのか」
「当たり前じゃん。大事なものだもん!」
リーはネックレスにそっと触れ、それからもう一度、弟を抱きしめた。
「そっか……。ちゃんと、持っててくれたんだな」
その声は、いつもの軽やかな調子とは違っていた。
しばらく二人は離れなかった。
ジャンも口を挟まず、ただ静かにその様子を見守っている。
やがて、楊が小さく息を吐いた。
「……なるほど。お前がずっと探していた弟というのは、この子だったんだな」
リーはヴェルマリスを抱いたまま、顔を上げた。
「はい、楊さん。……俺の弟です。ヴェルっていいます」
リーはそう答えながら、隣にいる弟の肩を抱き寄せた。
口にした途端、胸の奥が熱くなった。
弟だ。
ずっと探していた。もう一度会いたいと、何度も願った。けれど、十年という時間はあまりにも長く、記憶の中の小さな弟の姿は、いつしか遠い夢のようになっていた。
生きているのか。どこかで苦しんでいないか。自分を覚えているのか。
考えない日はなかった。
それなのに、今、目の前にいる。
自分の名前を呼んで、あの頃と同じように笑っている。
「ヴェル……そうか。お前がずっと探していた弟か」
「はい!」
リーは、今度こそ迷いなく頷いた。
声が少し震えたのを誤魔化すように、ヴェルの髪をくしゃりと撫でる。昔と同じ仕草だった。小さかった弟が嫌がって逃げると、追いかけて、また撫でて。そんな何でもない日々が、もう二度と戻らないと思っていた。
ヴェルはくすぐったそうに笑ってから、ふと思い出したように顔を上げた。
「えっとね、リー兄ちゃん。実は今、俺の名前はヴェルマリスっていうんだ」
「……ヴェルマリス?」
聞き慣れない名前を、リーはゆっくりと繰り返した。
弟が自分の知らない名前を名乗っている。
ほんの一瞬、胸の奥がちくりと痛んだ。
自分がいない十年の間に、弟はたくさんのことを経験したのだろう。自分の知らない人と出会い、自分の知らない場所で暮らし、自分の知らない名前をもらった。
その時間を、リーは一緒に過ごせなかった。
もっと早く見つけていれば。あのとき、手を離さなければ。
そんな思いが、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
けれど、ヴェルの表情を見て、リーはその考えをそっと押し戻した。
「うん。セレナ様が名前をくれたんだ。だから今は、ヴェルマリス!」
ヴェルは少し誇らしげに胸を張った。
その顔には、昔と変わらない無邪気さがあった。けれど同時に、幼い頃にはなかった自信も見える。
誰かが、この子を大切にしてくれたのだ。
名前を与えて、居場所を与えて、生きていくための時間をつないでくれた。
リーはようやく、心の底から息を吐いた。
「そっか……」
声が、自然と柔らかくなる。
「いい名前をもらったんだな」
「でしょ? 俺も気に入ってる!」
得意げに笑う弟を見て、リーも笑った。
胸の奥に残る寂しさが、完全に消えたわけではない。失われた十年は戻らないし、聞きたいことも、知りたいことも山ほどある。
それでも、今はそれでいいと思えた。
弟は生きている。
ちゃんと笑っている。
そして、自分の知らない場所でも、誰かに大切にされてきた。
それだけで、張り詰めていた心が少しずつほどけていく。
「ははっ、そうかそうか。……じゃあ、俺にとってはいつまでもヴェルだけど、ほかの人にはヴェルマリスって紹介すればいいんだな」
「うん! リー兄ちゃんは、今までどおりヴェルって呼んでよ!」
「もちろん。今さら変えられるわけないだろ?」
リーはわざと昔と同じ調子で答えた。
そうでもしなければ、また泣きそうだったから。
ヴェルはそんな兄の胸元に頬を寄せ、安心しきったように笑った。
その重みを感じながら、リーはそっと弟の頭を撫でる。
もう、夢じゃない。
手を伸ばしても届かなかった弟が、今はここにいる。
今度こそ、もう一度会えた。
リーはその事実を、何度も心の中で確かめるように、ヴェルを抱く腕に少しだけ力を込めた。




