第十一話 「花街」
遊郭の楼閣を出ると、夜の街はまだ賑わっていた。
軒先には赤い提灯がいくつも吊るされ、格子窓からは琵琶や琴の音、女たちの笑い声がこぼれている。香を焚きしめた風が通りを流れ、酒の匂いと甘いお香の香りが入り混じって独特な香りが漂っていた。
着飾った女たちは店先に立ち、通りを歩く男たちへ柔らかな笑みを向けている。袖を引き、扇で口元を隠して囁く声はどれも甘く、客の足を止めることに慣れているのが見て取れた。
そんな通りの一角で、ジャンが数人の女たちに囲まれていた。
「ねえ、お兄さん。そんなに急いでどこに行くんだい?」
「うちで一杯飲んでいかない? 今夜はいいお酒が入っているのよ」
「まあ、つれない人。少しくらい付き合ってくれてもいいでしょう?」
女の一人がジャンの袖をつまみ、別の一人がすっと彼の前へ回り込む。断ろうとすれば、今度は横から別の声が飛んできた。
「お兄さん、こっちのお店も覗いていって。後悔はさせないわ」
「いや、私は仕事中なので……」
「仕事なんて、少しくらい忘れたっていいじゃない」
「そうそう。そんな堅い顔をしていたら、せっかくのいい男が台無しよ?」
女たちはくすくすと笑いながら、ジャンの返事を待たずに次々と声をかける。
ジャンは礼儀を崩さないようにしているものの、眉間には深い皺が寄っていた。相手を無理に振り払うわけにもいかず、かといってこのままではいつまで経っても解放されそうにない。
「……ですから、連れを待っているんです。そろそろ失礼しますよ」
「あら、その連れって誰?」
「もしかして、恋人?」
「それならなおさら、ここで待っていないで一緒に遊んでいけばいいのに」
「いえ、そういう話では……」
ジャンが困り果てた、そのとき。
「ジャン、お待たせ!」
楼閣の階段から、ヴェルマリスが軽い足取りで下りてきた。片手には、店でもらった菓子の包みを持っている。
ジャンは声のした方へ顔を向けるなり、目に見えて安堵した。
「ああ、隊長… 遅かったですね」
ジャンの声には、隠しきれない安堵がにじんでいた。
「ん? なに、どうしたの?ジャン、モテモテじゃん」
「感心していないで助けてください」
ヴェルマリスがくすくすと笑うと、女たちの視線が一斉に彼へ向いた。
「まあ、かわいい子!」
「あなたうちで働かない? うちのお店、きっと気に入るわよ」
「ねえ、いいでしょう?」
今度は女たちの関心がヴェルマリスへ移った。華やかな衣装の裾が揺れ、甘い香りがふわりと近づいてくる。
「えっ、オレが?」
ヴェルマリスが少し目を丸くすると、女たちは楽しそうに笑った。
「もちろん。あなたみたいな子なら大歓迎よ」
「きっと人気がでるわよ」
ジャンはすかさずヴェルマリスの肩に手を置いた。
「申し訳ありませんが、連れが来ましたので。私たちはこれで」
「あら、もう行ってしまうの?」
「また今度ね、綺麗なお姉さんたち!」
名残惜しそうな声と笑顔に見送られ、ジャンはヴェルマリスを連れて足早にその場を離れた。
しばらく歩き、客引きの声が遠のいたところで、ジャンが深々と息を吐く。
「……助かりました」
「そんなに困ってたの?」
「ええ。断っても断っても、次から次へと。あの調子では、あなたが出てこなければ日付が変わっても解放されなかったでしょうね」
「ははっ、ジャンでもああいうのは苦手なんだね」
「苦手というより、仕事になりません」
ジャンは呆れたように返し、それから周囲へさりげなく視線を走らせた。
「それで、何か分かりましたか?」
「うん。楊って人のそばに、リーっていう男がいるらしい」
ジャンの表情が引き締まった。
「……その名前は」
「俺の兄と同じなんだ」
ヴェルマリスは首元のネックレスに触れた。
「それに、十年くらい前から楊のそばにいるんだって」
「十年前……」
ジャンは、以前調べた移送記録を思い返すように黙り込んだ。
「まだ同一人物だとは言い切れません。ですが、確認する価値はありますね」
「うん。楊の屋敷を調べたい。リーって人のことも」
「分かりました。まずは楊の身元と屋敷の場所を確認します。移送記録についても、年代や経路を照合してみましょう」
「うん」
ヴェルマリスは、遠くに見える街並みを見つめた。
十年間、どこにいるのかさえ分からなかった兄。
もしかしたら、今も同じ空の下で生きているのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
けれど、今度は手がかりがある。
名前がある。
たどるべき場所がある。
「……絶対に、確かめたい」
ヴェルマリスは首元のネックレスを握りしめた。
その手を、ゆっくりと下ろす。
もう、何も分からないまま立ち止まるつもりはなかった。




