第十話 「リーシャン帝国へ」
三日後。
必要な荷物をまとめたヴェルマリスは、出発前に首元のネックレスを確かめた。
いつも身につけているものだ。特別なことは何もない。
それでも、遠くへ向かうときには、つい触れてしまう。
「準備はできましたか?」
背後からジャンの声がした。
「うん。いつでも行けるよ」
「では、出発しましょう。道中の予定は先ほど説明したとおりです。現地に着いたら、まず宿を確保し、周辺の状況を確認します。その後、陳昊然への面会を申し込みます」
「いきなり行っても会えないかな?」
「相手は忙しい人物ですからね。先に連絡を入れたほうが確実です。断られた場合は、別の方法を考えます」
「なるほど。じゃあ、会えるといいね」
ヴェルマリスは軽く伸びをして、歩き出した。
今回は、敵の拠点へ踏み込む任務とは違う。
誰かを捕らえるためでも、戦うためでもない。
相手の言葉を聞き、街に残る情報を拾い、見えないつながりを探るための旅だ。
だからこそ、焦ってはいけない。
ジャンから何度も念を押されていたことを思い出し、ヴェルマリスは小さく笑った。
「ねえ、ジャン」
「何ですか?」
「もし、楊って人のそばにいるのが、本当に俺の知ってる人だったら……」
そこまで言って、ヴェルマリスは口を閉じた。
まだ何も分かっていない。期待だけを膨らませても、意味はない。
ジャンは急かさず、続きを待っていた。
「……ううん。なんでもない。まずは、ちゃんと調べないとね」
「ええ。ひとつずつ確認していきましょう」
ジャンはそれ以上、何も尋ねなかった。
やがて一行は、リーシャン帝国へ向かう道を進み始めた。
ザイル王国を横断する道のりは長い。治安の悪い海沿いを避け、内陸を迂回するルートを選んだため、到着までには相応の日数がかかる予定だった。
道中、ヴェルマリスは見慣れない街並みや土地の様子に興味を示しながらも、ジャンから説明された予定を忘れることはなかった。
旅の目的は観光ではない。
陳昊然に会い、「楊」という人物について調べること。そして、あのオークションで自分を誰かと間違えた理由を確かめることだ。
ザイル王国内では、街道沿いの町では、行き交う人々が見知らぬ旅人を警戒するように目を向けていた。賑わう宿場町もあれば、少し道を外れるだけで人通りが途絶える場所もある。
ジャンは事前に決めた経路を確認しながら、休憩や宿泊の場所を慎重に選んでいた。
ヴェルマリスもまた、そんなジャンの判断に従いながら、馬車に揺られる日々を過ごした。
出発から二十数日。
一行はようやく、リーシャン帝国へと続く道の先に、その国の街並みを目にした。
長い旅路の終わりが近づいていた。
けれど、ヴェルマリスたちの本当の目的は、ここから始まる。
陳昊然に会い、彼の口から話を聞く。
その先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。
ただ、ヴェルマリスの胸元では、古びたネックレスが静かに揺れていた。
*
リーシャン帝国に到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
街の大通りには多くの人が行き交い、軒先には色鮮やかな布や装飾品が並んでいる。香辛料の香りが漂う市場では商人たちの声が飛び交い、荷車を引く者や買い物を楽しむ者たちで賑わっていた。
エルビーナとは違う街並みを眺めながら、ヴェルマリスは興味深そうに辺りを見回していた。
「思っていたより、ずっと賑やかだね」
「帝国の中心部ですからね。商業も盛んですし、各地から人が集まってきます」
隣を歩くジャンが答える。
「ただ、今回の調査では目立ちすぎないようにしてください。私たちは観光に来たわけではありませんから」
「分かってるよ。ちゃんと仕事もするって」
「その言葉を信じていますよ」
ジャンの声には、どこか疑わしげな響きがあった。
ヴェルマリスは小さく笑い、再び街並みに目を向けた。
まずは陳昊然に会い、話を聞く。
オークションで自分を誰かと間違えた理由も、「楊」という人物との関係も、本人に聞けば何か分かるかもしれない。
十年前の記録とのつながりも気にかかる。けれど、今はまだ、何ひとつ確かなことはなかった。
焦る必要はない。手がかりをひとつずつ追っていけばいい。
* * *
陳昊然の店がある花街は、街の中心部にあった。
通りには美しい装飾を施した建物が並び、入口には色とりどりの灯籠が吊るされている。昼間でも人通りは多く、身なりのよい商人や貴族らしき人物が、警備の者に案内されながら店へ入っていく姿も見られた。
「ここが、陳昊然の店です」
ジャンが通りの先を示した。
ひときわ大きな建物だった。派手さを前面に押し出すというより、細部まで手入れが行き届いている。門の前には警備の者が立ち、出入りする客も限られているようだった。
「さすが、最高級って言われるだけあるね」
「評判どおりなら、客層もかなり限られているはずです。陳昊然は商人との交流も広いそうですが、誰にでも気軽に会う人物ではないようです」
「でも、オークション会場で会ってるから、俺のことは覚えてると思うよ」
「それが今回の利点ですね」
ジャンはそう言うと、少し離れた場所で待機する隊員たちに目配せした。
「私たちは周辺の情報を集めます。あなたは予定どおり、面会を申し込んでください。何かあれば、すぐに連絡を」
「了解。じゃあ、行ってくるね」
ヴェルマリスは軽く手を振り、陳昊然の店へと向かった。
店の者に面会を申し込むと、思いのほか早く返事があった。
陳昊然はヴェルマリスのことを覚えていたらしく、客間へ通すように指示したという。
案内された部屋には、落ち着いた色合いの調度品が並んでいた。窓辺には観賞用の植物が置かれ、香の匂いがほのかに漂っている。
「おや、君は……」
部屋に入ってきた陳昊然は、ヴェルマリスを見るなり目を細めた。
「競売場で会った子じゃないか。わざわざ私を訪ねてくるとはね」
「この前は途中で話が終わっちゃったからさ。もう少し話を聞けたらと思って」
ヴェルマリスは柔らかく笑い、軽く頭を下げた。
「それは構わないが、私に何を聞きたいんだい?」
「オークション会場で、俺のことを誰かと間違えてたよね? 楊って人の片腕に似てる、って」
「ああ、その話か」
陳昊然は思い出したように頷いた。
「君を見て、楊さんのそばにいる男を思い出したんだよ。髪や肌の色もそうだが、その尾も珍しい。似た特徴を持つ者は、そう多くないからね」
「へえ。そんなに似てるんだ」
ヴェルマリスは自分の尾にちらりと目をやった。
「その人って、どんな人なの?」
「そうだね……。口数が多い男ではないが、仕事は確かだ。楊さんが外出するときは、たいていそばにいる。護衛としても優秀らしい」
「護衛なんだ」
「それだけではないよ。身の回りのことも任されているようだ。楊さんは彼をずいぶん信頼している。普通なら他人に任せないような仕事まで頼んでいると聞いたことがある」
陳昊然は茶を口に運んだ。
「楊さんは人を見る目がある。気に入った相手を簡単に手放すような男ではないだろうね」
ヴェルマリスは相槌を打ちながら、話の内容を頭の中で整理していた。
楊は、そばにいる男を特別に信頼している。
護衛だけでなく、身の回りの仕事まで任せている。
それほど長く一緒にいる人物なら、楊の周辺を調べることで、何か手がかりが得られるかもしれない。
「楊さんって、どんな人なの?」
「裕福な商人だよ。扱う品も多いし、人脈も広い。派手に振る舞うタイプではないが、商売に関しては抜け目がないね」
「その人とは、よく会うの?」
「時々ね。彼が競売に顔を出すこともあるし、私の店に客として来ることもある。もっとも、私もいつでも会えるわけではないが」
ヴェルマリスは頷いた。
ここまでは、予想していた範囲の話だった。
楊という人物が裕福で、身近に信頼している護衛がいる。それだけでは、兄たちとの関係は分からない。
けれど、もう少しだけ確かめたいことがあった。
「そういえば、その人の名前は?」
何気ない調子で尋ねた。
陳昊然は少し考えるように視線を上げ、それから答えた。
「リー、だったかな」
その瞬間、ヴェルマリスの指が止まった。
リー。
たった二文字の名前が、耳の奥に深く沈んでいく。
聞き間違いではない。
忘れたことなど、一度もなかった。
けれど、目の前の男は何事もなかったかのように話を続けている。
「楊さんは彼をずいぶん気に入っているようだよ。十年ほど前に手に入れたと聞いたことがあるが、今ではすっかり右腕のような存在だそうだ」
十年ほど前。
その言葉が、さらに胸の奥を揺らした。
ヴェルマリスが兄たちと離れ離れになったのも、十年ほど前のことだった。
偶然かもしれない。
同じ名前の人間など、ほかにもいるだろう。
そう自分に言い聞かせようとしても、思考はそこで止まってしまった。
リー。
兄の名前。
幼い頃、何度も呼んだ名前。
* * *
――ヴェル、こっちだ。
振り返ったルーが、呆れたように手を差し伸べている。
「待ってよ、ルーにぃ!」
幼いヴェルマリスは、砂埃の舞う道を駆けていた。
「そんなに急がなくても、逃げないよ」
隣でリーが笑っている。
「だって、二人とも速いんだもん!」
「ヴェルが遅いだけじゃない?」
「リーにぃ!」
からかうような声に、ヴェルマリスは頬を膨らませた。
ルーが小さく笑い、リーは楽しそうに声を上げる。
何でもない日だった。
特別なことなど何もない。ただ三人で歩いて、話して、笑っていただけ。
それでも、あの頃のヴェルマリスにとっては、それが世界のすべてだった。
二人の兄がいれば大丈夫。
どこへ行っても、何があっても、きっと三人で帰れる。
そう信じていた。
――ずっと、一緒にいられると思っていた。
* * *
記憶の中の景色が、ゆっくりと変わる。
暗い空。重なる足音。遠くから聞こえる怒鳴り声。
ルーがヴェルマリスの肩をつかみ、隠れるように身をかがめた。
「いいか、ヴェル。よく聞け」
いつもとは違う声だった。
「俺たちがどうなっても、お前は生き延びろ」
「……何言ってるの?」
意味が分からなかった。
どうしてそんなことを言うのか。どうして二人とも、そんな顔をしているのか。
リーが近づいてきて、ヴェルマリスの首にネックレスをかけた。
「これ、持ってて」
「リーにぃも一緒に持っててよ」
「ううん。ヴェルが持っていて」
リーはいつものように笑った。
「すぐ戻ってくるから」
その言葉を信じた。
だから、伸ばした手が届かなかったときも、きっとすぐに戻ってくるのだと思っていた。
ルーの最後の言葉だけが、いつまでも耳に残っている。
――生き延びろ。
* * *
「……君 大丈夫かい?」
陳昊然の声が、遠くから聞こえた。
ヴェルマリスははっと顔を上げた。
いつの間にか、ネックレスを握りしめていた。指先に力が入り、鎖が手のひらに食い込んでいる。
「あ、ごめん。ちょっと考え事をしてた」
慌てて手を離し、ヴェルマリスはいつもの笑顔を浮かべた。
声は、思ったよりも自然に出た。
「その人について、もう少し詳しく聞かせてもらえる?」
陳昊然は少し不思議そうに首を傾げたが、特に追及することなく頷いた。
「そうだね。楊さんの屋敷にいることが多いはずだよ。彼に会いたいなら、まず楊さんに話を通すのがいいだろうね」
「そっか。ありがとう、すごく助かった」
「なに、たいしたことじゃないさ」
陳昊然は茶器を置き、ふと思い出したように付け加えた。
「ただ、楊さんは自分の身近な人間について、あまり他人に話したがらない。会いたいなら、相応の理由を用意しておいたほうがいいだろうね」
「うん。覚えておくよ」
ヴェルマリスは礼を言い、客間を後にした。
廊下を歩いている間も、頭の中では同じ名前が繰り返されていた。
リー。
十年前。
楊のそばにいる、信頼された男。
まだ本人だと決まったわけではない。顔も見ていないし、確かな証拠もない。
それでも、胸の奥に生まれた期待を、もうなかったことにはできなかった。




