第3話 早撃ちの代名詞
ツルハシで痺れた腕を引きずり、俺――ビルは氷点下のデンバーへ戻ってきた。
ロッキーの鉱道で泥水と鉱毒を吸い続けた身体が、猛烈に温かい飯を求めていた。
だが、駆け込んだサルーンで叩きつけられたのは、泥水で煮しめた古靴の底のような塩漬け干し肉と、白く固まった脂が浮く饐えた豆の煮込み。
まるで鉛のような残飯を粗悪なウィスキーで胃へ流し込む、俺は耐えかねて銀貨をカウンターへ叩きつけた。
命を削って穴を掘った報酬が、これか。
凍てつく夜風のなか、空っぽの胃袋が引きつるように痛んでいた、その時だった。
吹き抜ける夜風に乗って、鋭利な刃物のような【匂い】が、俺の鼻腔を真っ直ぐに刺し貫いた。
思わず足が止まった。頭の芯を直接ぶん殴られたような衝撃だった。
焦げた脂の、どこまでも甘やかな芳香。熱された鉄の上で新鮮な肉が爆ぜる凶暴な匂い。そして、香ばしく焼き上げられた小麦の匂い。
酒場の悪臭とも、安宿の貧相なスープとも違う。胃袋の底から眠っていた野生を無理やり叩き起こすような、暴力的なまでの美味の予感。涎が口いっぱいに溢れ出し、喉がごくりと鳴った。
考えるより先に、足は匂いの漂う路地裏へと向かっていた。
駅前の大通りから外れた、薄暗い路地。
そこに、歪んだ二輪の手押し車があった。
中央に据えられた薪ストーブの残骸から真っ赤な炎が吹き上がり、その上で見たこともないほど分厚く巨大な鋳鉄の天板が、凄まじい熱気を周囲の冷気へと放射している。
だが、俺の目を最も見開かせたのは、その鉄板の前に立つ人物だった。
「……てめえは」
昼間、駅前の酒場で荒くれ者に銃を向けられ、恐怖で小便を漏らさんばかりに震えて拳銃を取り落とした腰抜け。
町の保安官である親父に殴り飛ばされ、追放された――あの出来損ないの息子、レオ・カーターだ。
侮蔑の言葉を吐き捨てようとしたが、喉に張り付いた。
レオの目が、昼間のそれとはまるで違っていたからだ。怯えも屈辱の色すらない。
職人のように研ぎ澄まされた眼光で、少年はひたすらに、目の前の鉄板の熱を見つめていた。
「食うのか、食わないのか」
低く、硬い声。感情の籠もらない、しかし絶対の確信に満ちた声だった。
身体の全細胞があの熱気を求めて暴れていた。
「……食うに決まってんだろ! 出せるもんなら出してみやがれ!」
ポケットから有り金の銅貨を鷲掴みにし、手押し車の木枠へ叩きつけた。
その瞬間、レオの身体が動いた。
淀みがない。まるで何千回、何万回と繰り返してきたかのような、恐るべき速度。
レオは白い牛脂の塊を手に取ると、灼熱の鉄板へと滑らせた。
――ジュッ、ジュワアアアッッ!!
爆発のような音が弾け、純白の煙が夜の闇へと吹き上がる。鉄板の表面に黄金色の脂が弾け飛ぶ。
そこへレオが無造作に放り込んだのは、赤身と脂が混ざり合った粗挽き肉の塊。
間髪をいれず、レオは両手に握った平らな鉄ベラを構えた。
そして――。
グシャアッッッ!!!
耳を劈く凄まじい轟音が路地裏に木霊した。
レオが全体重を預け、鉄板の上の肉塊を力づくで一気に押し潰したのだ。肉が極限まで平たく潰され、厚い鉄板に焼きつけられる。
ジュウウウウウウウッッ!!
鼓膜を震わせる肉の絶叫とともに、立ち上る白煙が夜気を白く染め上げる。肉の縁が瞬時にカリカリの褐色へと焦げていくのが見えた。
レオは淀みない動作で、粗挽きの塩と黒胡椒を高い位置から豪快に振り撒く。パチパチとスパイスが爆ぜる。さらに、二つに割られた昨日の売れ残りの丸パンを、鉄板に溢れ出た牛脂の上へ伏せるように叩きつけた。
シュウウッ、とパンが脂を吸い上げ、香ばしい焼き目を纏っていく。
鉄ベラが肉の下へ滑り込む。ガリッ、という心地よい金属音とともに肉がひっくり返された。裏面は見事な濃褐色――完璧な焦げ目を纏い、脂の泡を吹いている。
パンを掴み、肉を挟み、紙の切れ端で包み込む。
注文から、わずか一分強。早撃ち自慢のガンマンですら見惚れるような神速の手さばきで、それは俺の目の前に差し出された。
「熱いうちに食え」
「あちっ……!」
受け取った瞬間、紙越しに伝わる暴力的な熱気に思わず落としそうになった。隙間から、湯気とともに信じられないほどの肉汁の匂いが溢れ出してくる。
俺は大口を開け、その塊にかぶりついた。
――サクッ。
軽快な、信じられないほど軽やかな音が頭蓋に響いた。牛脂を吸って揚げ焼きにされたパンの表面が、小気味よく弾けたのだ。
そして、次の瞬間。
「――――ッ!?」
口の中で、何かが爆発した。
押し潰され、極限までカリカリに焼かれた肉の焦げ目から、熱々の肉汁が濁流となって雪崩れ込んできたのだ。
熱い。痛いほどの熱さだ。だが、噛むのをやめられない。
粗く刻まれた肉は心地よい弾力を残しながら、噛み締めるごとにパラパラと口の中で解けていく。解けるたびに溢れ出す赤身の濃厚な血の旨味。ダイス状のケンネ脂が熱で溶け合い、甘やかな脂の洪水となって喉を潤す。
ガツンと舌を殴りつける強烈な塩気。鼻腔を駆け抜ける黒胡椒の鮮烈な辛み。
そして、そのすべての肉汁を受け止める、サクサクに焼かれたパンの甘み。
完璧だった。熱、肉、脂、圧倒的な旨味の塊。
(うめえ……! うめええええええッッ!!)
十二時間、冷たい土の中で擦り減らした命が急速に満たされていく。凍え切っていた胃袋が、内側からカッと燃え盛るように熱を帯びる。
俺の目からボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
救われたのだ。この街で、ただ死なないためだけに生きていた俺の魂が、今まさに救済されていた。
喉を鳴らし、服が汚れるのも構わず、俺は獣のように貪り食った。最後の一口を飲み干した時、包み紙の隅にこびりついた脂まで狂ったように舐め尽くしていた。
「……おい、あんた!」
ふと我に返ると、いつの間にか路地の入り口に人だかりができていた。
仕事を終えた金鉱夫たち、泥まみれの鉄道工夫、牛追いのカウボーイたち。彼らは俺が涙を流して貪り食う姿と、路地に充満した凶悪な肉の匂いに引き寄せられ、目を血走らせていた。
「おい坊主、そいつを俺にも食わせろ!」
「金を払う! 俺が先だ!」
飢えた獣たちが手押し車へ我先にと殺到する。だが、レオの表情は微塵も揺るがなかった。
「並べ。騒ぐ奴には売らない」
冷徹に言い放ち、レオは再び鉄ベラを構えた。
ジュウウウウッ!
グシャアッッッ!
響き渡る肉の悲鳴。吹き上がる白煙。
レオはまるで精密機械のように、無駄のない動きで次々と肉を押し潰し、焼き、紙に包んで客の手へ叩き込んでいく。
それを受け取った荒くれ者たちが一口かじった瞬間に目を見開き、絶叫を上げて涙を流す。熱狂が、深夜の路地裏を瞬く間に呑み込んでいった。
――どれほどの時間が経っただろうか。
あれほど群がっていた男たちが去り、用意されていた肉がすべて消え去った時、路地裏には再び静まり返った冷気が戻っていた。
五十個の塊は跡形もなく消え失せ、手押し車の木箱には銀貨と銅貨がうずたかく積まれていた。
五ドル――俺たち坑夫が泥水をすすって稼ぐ日給の三倍以上を、この少年はわずか二時間足らずでかっさらっていったのだ。
残ったのは、薪ストーブの微かな爆ぜる音と、鉄板に残った焦げた脂の匂いだけだ。
俺はまだその場から動けずにいた。魂を抜き取られたように、空になった手押し車を見つめ、掠れた声で尋ねた。
「……おい。これは、なんていう食い物なんだ?」
レオは脂の染みた平らなフライ返しを軽く回すと、まるで抜き放ったリボルバーをホルスターへ戻すかのように、腰の前掛けへと静かに差した。
そして、夜の闇の中で、不敵に口元を吊り上げた。
それは早撃ちの代名詞──
「コルト・バーガーさ」
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