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第4話 50セントの砦

最後の客の足音が、夜の闇の向こうへと消え去った。路地裏に、唐突な静寂が降りてくる。

その瞬間だった。


「…………がッ、あ、ぁ……ッ!」

手押し車の木枠を握りしめたまま、俺の膝ががくがくと震え、その場に崩れ落ちそうになった。


激痛だ。

両腕の筋肉が断線したかのように痙攣し、熱い針を千本突き刺されたような痛みが肘から貫いている。

指先が強張り、固まったまま開かない。


12ミリ厚の極厚鋳鉄板。

そこに全体重を叩きつけ、わずか二時間足らずで五十回ものスマッシュを連続で繰り出した代償だった。


前世の深夜ワンオペで腱鞘炎の痛みなら嫌というほど知っていた。

だが、この十八歳の鍛えられていない生身の肉体には、骨の芯まで軋む過酷な重労働すぎた。


荒い息を吐きながら、俺は強張る指先を無理やり動かし、薄汚れた上着のポケットへと突っ込んだ。

――ジャラリ。


重たく、鈍い金属音が響いた。

冷え切った指先に触れる、無数の硬貨の感触。

十セント銀貨(ダイム)と、銅貨の山。


数えるまでもない。

五十食、完売。売上はきっちり五ドル。

昼間の元手の残金四ドル十セントと合わせ、手持ちの総資金は九ドル十セントに達していた。


「……やり切ったぞ」

泥水を飲まされ、親父に殴り飛ばされたあの路地裏で、俺はかすれた声で呟いた。


金鉱夫が暗黒の坑道で一日中ツルハシを振るっても、日当せいぜい一ドルから一ドル五十セントだ。


命を削る過酷な重労働の一週間分に匹敵する大金を、俺は一晩、手押し車一つで毟り取ったのだ。


だが――勝利の余韻に浸る時間は、一秒たりとも残されていなかった。

ヒュウッ、とロッキー山脈からの吹き下ろしが路地を駆け抜ける。


吐き出した息が、目の前で真っ白に凍りついた。

十月のデンバー。

太陽が落ちたこの街の冷気は、容赦なく氷点下へと叩き落とされる。

体の芯から熱が奪われていく。


濡れた前掛けがパリパリと凍り始め、皮膚の感覚が急速に麻痺していく。

(このまま野宿すれば、確実に凍死するな……)


だが、手押し車を押して大通りの安宿(ドミトリー)に駆け込むことなど、自殺行為以外の何物でもない。


ここは法よりも銃弾が優先されるフロンティア都市だ。

薄汚れた十八歳のガキが、ポケットを銀貨で膨らませ、油の焼き付いた得体の知れない極厚鉄板を抱えて相部屋に入ってみろ。


夜中に寝首を掻かれて喉笛を裂かれ、金を奪われた挙句、鉄板ごと手押し車を持ち去られて路地に転がされるのがオチだ。


「……動け。止まったら死ぬぞ」

俺は麻痺しかけた両足に気合いを入れ、軋む車輪を前へと押し出した。

向かうべき場所は、最初から決まっていた。


この街で、俺が生き延びるための唯一の「拠点」になり得る場所へ。

大通りの酒場から漏れ出る喧騒と煤煙を避け、俺は暗い裏路地を縫うように手押し車を進めた。


車輪のきしむ音が、凍てつく夜気にやけに甲高く響く。

背後を警戒しながら歩くこと十分。目指す建物の裏手に辿り着いた。


昼間、カチカチに干からびた売れ残りの丸パンを二束三文で譲ってくれた、あのベーカリーだ。

見上げれば、赤レンガの煙突から細い煙が立ち上っている。翌朝のパンを焼くため、すでに仕込みと火入れが始まっている証拠だった。


俺は手押し車を物陰に滑り込ませると、裏口の分厚い木戸の前に立ち、拳を振り上げた。

コン、コン、コン。

正確な三拍子のリズムで、固い木肌を叩く。


中から重い足音が近づいてくる気配がした。

ガタリと乱暴にかんぬきが外され、ぎりぎりと軋んだ音を立てて扉が半開きになる。


「……誰だ、こんな夜更けに! うちはまだ開店前だぞ!」

小麦粉で全身を白く染めた巨漢が、凶悪な顔を覗かせた。

店主のオットーだ。


オットーは手押し車を引く俺の姿を認めると、昼間と同じように露骨に眉をひそめ、唾を吐き捨てた。

「カーターの坊主じゃねえか。保安官の親父に叩き出されたって噂だが……何の用だ。施しならやらねえぞ。とっとと失せろ」


容赦なく扉が閉められそうになる。

俺は躊躇わず、泥で汚れたブーツの爪先を扉の隙間に力づくでねじ込んだ。


「待て。施しを受けに来たんじゃない」

「あぁん?」

「商売の話だ。オットー」


冷気で強張る顎を無理やり動かし、俺は冷徹な視線をオットーの濁った瞳に真っ直ぐぶつけた。


「あんたの店の中に、今日売れ残った丸パンが余ってるだろ。明日の朝、捨てる予定のやつをあるだけ全部買い取りたい」


オットーが低く鼻を鳴らした。

「ハッ、売れ残りの屑パンなんざ豚の餌かゴミ箱行きだ。だがな、夜中にわざわざ叩き起こして十セントや二十セントのパンを買いに来ただと? ふざけるな、小僧」


「五十セント(半ドル)払う」

俺はポケットから、鈍く光る銀貨の束を取り出し、オットーの目の前に突きつけた。


夜闇の中で、銀の硬質な輝きがギラリと反射する。

オットーの分厚い眉が跳ね上がり、扉を閉めようとしていた腕の力がぴたりと止まった。

労働者の半日分の日当に相当する銀貨。


だが、オットーはすぐに眉根を寄せ、胡散臭そうに俺を睨みつけた。

「……おいおい、美味い話をしやがって。今日、パンが一個も余ってなかったらどうする気だ?うちは毎日売れ残りを出すようなヘボな店じゃねえぞ」


職人のプライドが混ざった鋭い問いだった。

俺は眉一つ動かさず、即座に切り返した。


「もし一個も余ってなけりゃ、この五十セントはそのままくれてやる。あんたに損は一セントもない」

「……あ?」

「だが――余ってないわけがないだろ」


俺はオットーの肩越し、工房の奥を指差した。

「奥の棚の横、麻袋を被せた木箱があるな。夕方は急激に冷え込んだ。サルーンへの客ばかりで、大通りからパンを買う客足はピタリと止まったはずだ。

あの箱の中に、今日売れ残った硬い丸パンが、少なくとも五十個以上は眠ってる」


オットーの喉仏が、ごくりと小さく上下した。

図星を突かれた顔だった。

前世で十年間、廃棄ロスと戦ってきた俺の目を誤魔化せるはずがない。


俺は畳み掛けるように、条件を叩きつける。

「条件は二つだ。一つは、その売れ残った丸パンを捨てずに、明日の朝まで全部取っておくこと。もう一つは――」


俺はオットーの背後にある、赤レンガの壁を指差した。

「あんたの店の裏手にある軒下――その薪置き場の脇のスペースを、手押し車ごと一晩貸せ」


オットーの顔に、瞬時に深い警戒の色が浮かんだ。


「……店の中に他人を入れるわけがねえだろうが。寝首を掻いて店の粉や売上を盗む気か」

「中に泊めろなんて言ってない」


俺は即座に首を振った。

「外だ。この裏手の軒下、パン窯の余熱が届く外壁の隙間だけでいい。

あんたの店の敷地内なら、大通りの泥棒やゴロツキも手を出せない。

それに、俺が外にいれば、裏口の薪や小麦粉を狙うコソ泥への番犬代わりにもなる」


オットーが押し黙る。

俺は一歩も引かず、冷徹な損益分岐点を突きつけてやった。

「あんたにとっては、本来タダで捨てるはずの硬いパンと、雪が吹き込むだけの外の死にスペースが一晩で五十セントに化けるんだ。

店の中に一歩も入れないんだから、粉を盗まれるリスクもゼロだ。

……断る理由があるか?」


路地に冷たい風が吹き抜ける。

オットーの吐き出す白い息が、夜の闇にゆらりと揺れた。

十秒に及ぶ沈黙。


オットーは鋭い職人の目で、俺の顔、そして油と煤で黒光りする手押し車の極厚鉄板をじっと見つめていた。

やがて、巨漢の親父は乱暴に鼻を鳴らした。


「……五十セント、前払いだ」

「ああ、もちろん」


俺は躊躇うことなく、五十セント分の硬貨をオットーの粉まみれの掌へ叩き込んだ。

掌の上で、銀貨が確かな重みを持ってチャリンと鳴る。

オットーはそれをポケットに突っ込むと、顎で裏手の暗がりをしゃくった。


「薪置き場の奥に手押し車を突っ込んどけ。薪を勝手に燃やすんじゃねえぞ。朝の六時には叩き起こすからな」


バタンッ、と重い木戸が閉ざされ、かんぬきが差し込まれる音が響いた。

交渉成立だ。


俺は軋む車輪を押し、軒下の狭い薪置き場へと滑り込ませた。

頭上には雪除けの深いひさし。

両脇には積み上げられた大量の薪が壁となり、吹き荒れるロッキーの凍てつく風を完璧に遮断している。


そして何より――手押し車を押し当てたレンガの外壁から、じわりと温かい熱気が伝わってきた。

壁一枚隔てた向こうにある、巨大なパン窯の余熱だ。


凍りついていた皮膚の奥に、微かな温もりが染み渡っていく。

「……っ、ふう……」


極厚鉄板を手押し車から降ろすこともせず、俺は薪の山に背中を預けて、その場にへたり込んだ。

手元の残金は、八ドル六十セント。


五十セントを投じたが、これによって「氷点下の凍死回避」「強盗からの防犯」「明日のパンの仕入れルート確保」という三つの課題が一挙に解決した。

野宿なら死んでいたし、安宿なら身ぐるみ剥がれていた。


暗がりの中、冷えた夜気に白い息を吐き出しながら、俺は温もりを宿す赤レンガの壁にそっと体重を預けた。


この街で生き延びるための、最初の砦を手に入れた瞬間だった。


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