第15話 お嬢様は商売人
「……っ、はっ!?」
最後の一口を飲み込んだ瞬間、私は我に返った。
指先は牛脂でテラテラと光っている。
口元には溶けたチーズ。
護衛の警備員たちが口をあんぐりと開け、列をなす鉱夫たちまでもが息を呑んで私を見つめている。
(嘘でしょう……!?私、なんてことを……!?)
名門ペンドルトン家の令嬢が。
薄暗い路地裏で、立ったまま。
素手で肉を貪り食ったのだ。
カアッと頭に血が上り、耳の先まで林檎のように熱くなる。
目の前では、エプロンで手を拭くレオ・カーターが、事もなげに言う。
「お気に召したようで何よりだ、お嬢様。……さて、立ち退きの話の、続きをしようか」
憎たらしい。
今すぐ叫んで馬車へ逃げ帰りたい。
だが――
(……待ちなさい、シャーロット)
安いクズ肉と牛脂に、素朴なパンと芋。
元値は売値の半額以下だろう。
(それにこの提供の早さ……!手押し車一つで、一晩いくら稼いでいるの……!?)
背筋がゾクゾクした。
こんなもの、路地裏でやっていい規模じゃない。
私は泥に落ちた扇子を拾い上げ、ハンカチで指先と口元を拭い、胸元を正して向き直る。
ただ追い出すだけじゃ、父様の言う通り「お使いの雑用」で終わってしまう。
(……そうよ。あの持て余してる死に物件を使えばいいわ)
父から処分を押し付けられている、借り手のない不良物件。
あれをエサにしてここから追い出し、この男の商売ごと手駒に囲い込んでやれば――!
「……認めてあげる。美味しかったわ」
「そいつはどうも」
「でも! だからこそ言わせていただくわ。あなたいつまでこんな路地裏で油煙を撒き散らして小銭を拾い集めるつもり?」
私は扇子の先でレオを指差した。
「父様は力尽くで叩き出せと仰ったけれど……そんな芸のない真似、私はしない。明朝までに、ここからは立ち退きなさい。……その代わりよ。ペンドルトン家が、あなたが店舗に使える『土地と建物』を用意してあげてもいいわ」
いかにも慈悲を施すような態度。
レオは驚きもせず、木枠に肘をついて笑った。
「へえ、店舗用の土地と建物ねえ。本当にそんな都合のいい話があるのか?」
「あら、ペンドルトンの不動産を疑うの?
物件なんて、持て余すほど……コホン、選り取り見取りよ。こんな煤けた路地裏より、ずっといい場所に決まっているでしょう」
「持て余すほど、ねえ」
探るようなレオの目を、澄ました顔で受け流した。
胸元から一枚の羊皮紙を取り出し、インクペンを添えて突きつける。
『即時立ち退き誓約書』。
「私の話に乗るなら、まずはこれにサインなさい。
条件は、明朝までにこの路地裏から立ち退くこと。ただそれだけよ」
横にいた少年が真っ青になって叫ぶ。
「て、店長……!? だめですよ、そんなのサインしちゃ……!
こっちには何の保証もないじゃないですか! ただ立ち退くことしか書いてないのに、サインしたら追い出されて終わりです!」
当然の反応だ。
店舗の保証など一言も書かれていない、ただの一方的な立ち退き誓約書。
代わりの物件を確かめる前にサインするなど、ただの自殺行為なのだから。
だが。
レオは迷いなくペンを奪い取ると、サラサラと署名してしまった。
羊皮紙の末尾に、レオ・カーターの名が刻まれる。
呆気にとられる私を尻目に、男はくるりと振り返り、路地を埋め尽くす鉱夫たちに向かって両手を広げた。
「おい、みんな! 見ての通り、ここは今夜でお開きだ!」
通りの奥まで響き渡る野太い大声。
並んでいた男たちが「なんだって!?」「おいおい、食えなくなるのかよ!」とざわめき立つ。
レオは悪戯っぽく口角を吊り上げ、私の顔を指差した。
「心配すんな! ここにいるペンドルトン家のお嬢様が、俺たちにちゃんとした新店舗を用意してくれるってよ!
――まさか、名門ペンドルトン家が約束を違えたりしねえよな?」
「なっ……!?」
鉱夫たちから、割れんばかりの歓声と野次が上がった。
『おおっ! レオの坊主に店をやるのか!』
『ペンドルトンのお嬢様、話がわかるじゃねえか!』
レオは満足そうに頷き、ニヤリと笑って男たちにウィンクしてみせた。
「そういうわけだ! お嬢様からもらう新店舗にも、是非来てくれよな!」
(この男……っ!)
思わず息を呑んだ。
なんて図々しく、抜け目のない男かしら。
(……ふん、この男が成功しようがしまいが。ペンドルトン家にとっては損のない賭けよ)
あの男が郊外の廃屋で音を上げて野垂れ死のうと、私の知ったことじゃない。
立ち退き誓約書さえ手に入れば、父様への報告は完璧に片付く。
そして――もしも。
万が一にでも、あの異常な料理の美味しさと手際の良さで、物件を生き返らせるような奇跡が起きたなら?
(その時は……私の土地で稼いだ甘い蜜を、たっぷり吸い上げてやるだけよ)
羊皮紙を素早く回収し、扇子を鳴らす。
「取引成立ね。詳しい物件リストは、明朝届けさせるわ。……せいぜい、楽しみにしておくことね!」
「ああ、待ってるぜ、お嬢様」
レオは手押し車の木枠に寄りかかり、不敵に口角を吊り上げて軽く手を振ってみせた。
私はドレスを翻し、馬車へと乗り込む。
手の中には、一枚の立ち退き誓約書。
父の敷いたレールを外れ、自分の手で歯車を動かしたという万能感に、全身が熱く沸き立っていた。
まだ知る由もなかった。
自分が手玉に取ったはずのあの少年が、この街の常識を根底から塗り替える怪物だということも。
そして――
私が、その共犯者になるのだということも。
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