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第16話 ユウキュウを取って内見を!

朝六時。

俺たちが間借りしているベーカリーの裏手。


赤レンガの石窯から漂う香ばしいパンの匂いとは裏腹に、今朝の作業場はまるで葬式のように重苦しい沈黙に包まれていた。


いつもなら、鉄網にジャガイモを叩きつけ、肉を丸める音で活気づいている時間だ。


「……店長。これ、片付けときますか?」

ティムが、寸胴鍋を抱えたまま力なく尋ねてくる。


その横では、サムとピートが、不安げに身を寄せ合っていた。

昨夜、あの青いドレスのお嬢様に『立ち退き誓約書』を突きつけられ、俺が迷いなくサインしてしまったからだ。


「俺たち、今日からどうやって生きていくんですか……」

「また路地裏で、泥水すする生活に戻るのかな……」


悲痛な呟きが漏れる。

無理もない。彼らにとってあの屋台は、初めて人間らしく扱ってもらえた居場所だったのだから。


そこへ、カンカンと裏木戸を叩く音が響いた。

使い走りの少年が差し出してきたのは、上質な封筒だった。


赤い封蝋には、ペンドルトン家の重厚な紋章が押されている。

「おっ、来たな」


俺は封を切り、中身の羊皮紙を広げた。

シャーロット・ペンドルトンから送られてきた『店舗用の土地と建物の候補リスト』だ。


ご丁寧にも、デンバー周辺の地図付きで三つの物件が記されている。

「……店長、それ……」


ティムがすがるような目で見てくる。

俺はリストを一瞥し、粉だらけの木台をパンパンと叩いた。


「おい、お前ら。いい加減顔を上げろ」

「でも、屋台が……」

「屋台の営業はもうしねえ」


俺はエプロンを外し、壁のフックへ引っ掛けた。

「しばらく有給だ。散歩に付き合え」


「「「……ユウキュウ?」」」

ティムと子供たちの頭の上に、見えないはてなマークが浮かび上がった。


十九世紀末の西部に、労働基準法も有給休暇も概念すらあるはずがない。

「ユウキュウって……新しい肉の部位ですか?」


サムが真顔で首を傾げる。

「ちげえよ。休んでも給料が出る魔法の言葉だ」

俺は呆れながら、リストを丸めてポケットに突っ込んだ。


「お嬢様が恵んでくれた『素晴らしい店舗候補』とやらを、見学しに行くぞ」

渡された地図を頼りに、まずは街の西側、プラット川の支流へ向かう。


「一軒目。川沿いの旧渡し場跡だ」

到着した俺たちの目の前にあったのは――増水と湿気で土台が腐りかけ、斜めに傾いたみすぼらしい木造の小屋だった。


かつては渡し船の待合所だったのだろうが、今はただの粗大ゴミだ。

ティムが絶望的な顔で小屋を見上げる。


「て、店長……これって……」

「川が氾濫したら終わりだ。却下」


俺は5秒で背を向けた。

「えっ、もう終わりですか!?」

「あんな泥沼に厨房作れるか。次行くぞ」

俺たちは街の北側へ歩を進めた。


二軒目は、馬車の有料道路(トールロード)の入り口付近。

「旧検問所跡の石小屋だ」


到着して、俺は鼻で笑った。

なるほど、石造りで建物自体は頑丈だ。だが、問題は立地である。


街道の道幅が極端に狭く、荷馬車が一台通るのがやっとの場所なのだ。

「客が立ち止まる場所すらない。却下」


俺は五秒で背を向けた。

「ちょ、ちょっと店長! 中くらい見ましょうよ!」

「見る価値もねえ。あんな狭い道で店を開いたら、馬車が詰まって大渋滞だ。クレーム対応で日が暮れるぞ」


ズンズンと歩き出す俺の背後で、とうとうティムたちの不満と絶望が爆発した。

「どれもボロボロじゃないですか!」

「屋根に穴は開いてるし、床は腐ってるし……あんなの、店舗どころか馬小屋以下ですよ!」

「あのお嬢様、最初から俺たちを路地裏から追い出して、親父のゴミを押し付ける気だったんだ……!」


子供たちの心は、すっかりあの冷徹なお嬢様への怒りと悲しみで塗り潰されていた。

「まあ、怒んなって」


俺は笑い飛ばした。

最初から、立派な物件なんて期待しちゃいない。

上手く乗せたとはいえ、路地裏の不法占拠者に貸すような物件が、いわゆる『死に物件』であることくらい百も承知だ。


だが、立地と条件さえパズルのピースにハマれば――死に物件は、黄金を生む箱に化ける。


「次が最後だ。気合い入れて歩くぞ」

三軒目。


デンバーの中心地から少し離れた郊外。

西部の山岳地帯へと続く、旧街道の分岐点。


「……着いたぞ。ここだ」

俺たちが立ち止まった先には、荒涼とした乾いた風が吹いていた。

かつて西へ向かう馬車が行き交ったであろう街道。


そこに建っていたのは、完全に打ち捨てられた二階建ての巨大な木造建築だった。

かつての『旧駅馬車の中継所(ステーション)』。


一階は酒場兼食堂、二階は簡易の宿泊所になっていたのだろう。

看板は真っ二つに割れて傾き、ガラス窓は埃と砂で灰色に濁りきっている。


建物の前には、駅馬車を何台も停められるほど広大な敷地(前庭)が広がっていたが、今は大人の腰まである雑草に覆い尽くされていた。


「……うそだろ」

「ここが一番ひどい……完全に幽霊屋敷じゃないか……」


立地は郊外。建物はボロボロ。

飲食店の出店候補としては、誰がどう見ても最悪の立地だ。


(あの女狐め……! こんなゴミの山を掴ませて……!)

そんなことを思っているのか、ティムは悔しげに拳を地面に叩きつけている。


だが。

「……ははっ」

俺の口からは、抑えきれない笑いが漏れ出ていた。


胸の奥で、アドレナリンが沸き立つのが分かる。

広大な前庭。

二つの街道が交わる、この絶妙な交差点。


「いや、決めた」

俺は獰猛に口角を吊り上げ、振り返って子供たちを見下ろした。


「この駅馬車の物件以外、ありえない」

「……えええええええええええっ!?」


荒野の風の中に、ティムたちの絶叫が響き渡った。


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