第12話 壊れたブレーキ
「店長、手伝います! 一人じゃ朝までに終わりません、オレも残ります!」
片付けを終えたベーカリーの裏庭で、ティムが必死に食い下がってきた。
少年の前には、巨大な豆の麻袋、三十五ポンドのスネ肉、泥だらけのジャガイモの山。
だが、しかし時間はすでに俺の決めた「定時」を過ぎている。
「……帰れ、ティム」
「店長……っ!」
俺はティムの肩を掴み、路地へと押し出す。
「明日も朝六時ジャストに来い。それ以外は要らない」
裏庭の木戸を引き寄せ、カンヌキを下ろす。
ガシャン、と重い木の音が響き、分厚い扉が一枚、労働者と経営者の残酷な境界線を引いた。
ティムの足音が遠ざかるのを確認し、俺は暗がりの中で口を開ける巨大な空の大鍋を見つめた。
(あいつを、俺と同じ目に遭わせるわけにはいかない)
他人に理不尽を強いる側にだけは成り下がらない。
ツケを払うのは、俺だ、俺自身だ。
氷点下の闇の中、深夜シフトへ突入する。
ロッキーの雪解け水を源流とするデンバーの井戸水は冷たい。
ピントビーンズを沈めた水に手を突っ込むたび、氷の針で骨を刺されるような激痛が走る。
石窯の熱で牛脂を溶かし、作業台で二本の包丁を構えた。
トトトトトトトトトト――ッ!
三十五ポンドのスネ肉を叩き刻む。右手の腱がギシギシと悲鳴を上げる。
だが、二時間を超えたあたりから、激痛がふっと消え去った。
視界が異常なほどクリアに研ぎ澄まされ、包丁のピッチがさらに上がる。過労の限界を突破した脳が、エンドルフィンを垂れ流し始めているのだ。
深夜三時半。
パン窯に薪を足しに起きてきたオットーが、土間で息を呑んだ。
「……おい、小僧」
背後でオットーの足音がピタリと止まる。
俺は包丁を動かしたまま振り返り、暗がりに立つ巨漢へ向けて、前世で何万回も作ってきた『完璧な営業スマイル』の形に顔の筋肉を張り付けた。
「あ、お疲れ様です。次はポテトの仕込みに入りますんで」
自分では、至極まともな業務報告をしたつもりだった。
だが、オットーはなぜか幽霊でも見たように血相を変え、ワナワナと震える手を伸ばしてきた。
「てめえ……何に取り憑かれてやがる。包丁を置け!一睡もしてねえだろ!」
大袈裟な反応だな、と内心で首を傾げながら、俺は笑顔を崩さずにその手をスルリとかわした。
「大丈夫ですよ。仕込みの遅れは出しませんから。SVが来ても問題ないです。お気遣いなく」
俺の言葉を聞いたオットーの顔が、さらに恐怖に引き攣っていく。俺はそれを不思議に思いながらも、再び鉄網の上にジャガイモをセットした。
ガシャン! ガシャン! ガシャン!
朝五時。
ロッキーの稜線が青白く光り始めた。
作業台の上には、完璧な濃度に煮上がった巨大なチリの寸胴鍋。山のような下揚げポテト。木箱に整然と並ぶ百五十個のパティボール。
「……終わった」
やり切った。胸の奥から、心地よい達成感が湧き上がる。
その時。
――ピーッ、ピーッ、ピーッ。
ヒュウッ、と吹き抜けるロッキーの冷たい風の音が、不意に、前世の厨房のフライヤーの警告音に聞こえた。
「これで……本部に怒られなくて済む……欠品は、出さない……」
時空の歪んだ安堵感が胸を満たす。
ふらつく足で手押し車の前にしゃがみ込み、震える指でマッチ箱を取り出した。
オープン準備だ。火を入れないと。
――シュッ。
小さな赤い炎が灯った、その瞬間だった。
――キィィィィィィン……ッ!
鼓膜を突き破る耳鳴りが炸裂した。
視界から猛烈な速度で色が失われ、白黒の砂嵐に呑み込まれていく。
ドクンッッッッ!!
拳で握り潰されたような激痛が胸を駆け抜けた。
ドクッ、ドクッ……ト、ト、ト……。
脈が乱れ、全身の血の気が足の裏から抜け落ちていく。指先から滑り落ちた小さな炎が、泥の上でジュッと消えた。
(あ…………)
知っている。
深夜の厨房で床に倒れ伏し、心臓が停止した――前世のあの夜と、完全に同じだ。
ガクンと膝が折れる。
12ミリの極厚鉄板の前へ、身体が吸い込まれるように崩れ落ちた。凍りついた泥が頬を打つ。
視界が完全な暗闇へと塗り潰されていく中、バタンッ!!と木戸が跳ね飛ばされる音が聞こえて──
「――て、店長ッ!? 店長ォォォォォッッッ!!!!」
朝霧を切り裂く絶叫を最後に、俺は完全に意識を手放した。
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