第11話 3セントの赤い悪魔
ガシャン! ガシャン! ガシャン!
ベーカリーの裏庭に、規則正しい金属音が小気味よく響き渡っていた。
「指示その一、中央に置く。レバーを下ろす。
指示その二、水の中で五回振る。
指示その三、油に沈めて三十秒……!」
ティムが呪文のように手順を口ずさみながら、淀みのない動きでフレンチフライの仕込みを回している。
昨日までの怯えきったノロマな丁稚の姿は、どこにもない。
眼差しは真剣そのもので、無駄な動作がミリ単位で削ぎ落とされている。
(よし……仕込みの半自動化は完全に成功した)
作業台の奥には、下揚げを完璧に終えたポテトの山と、成形済みのパティボール。
俺の負担は劇的に減り、手押し車の生産能力は間違いなく向上した。
だが――俺の頭の中の電卓は、すでに冷徹な警報を鳴らしていた。
(現状維持は衰退の始まりだ。ここで満足するわけにはいかない)
手元には三十ドルを超えるキャッシュがある。
だが、手押し車という極小のプラットフォームで捌ける客の数には、どうしても物理的な限界がある。
日没から酒場が本格稼働するまでのゴールデンタイムは、せいぜい二時間から三時間。
いくら提供スピードを極限まで縮めても、一晩で捌ける客数は百五十人から二百人が関の山だ。
売上の公式は客数 × 客単価。
客数の天井が見えているなら、売上を倍化させる手段は一つしかない。
客一人あたりの支払額を限界まで引き上げる――アップセル(追加課金)だ。
俺はティムに作業を任せ、早朝の市場と食肉解体場へ向かった。
手に入れたのは、誰も見向きもしない二束三文の食材だ。
食肉解体場のドノバンから仕入れた、さらに筋張ったスネ肉の端材と牛脂の屑。
そして市場の乾物屋で、床の隅に埃をかぶって転がっていた巨大な麻袋――ピントビーンズ(乾燥うずら豆)だ。
「おいおい、豆、五十ポンドも引き取ってくれるのかい?三十セントでいいよ、持ってってくれ!」
八百屋の親父が笑いながら麻袋を放り出してきた。
ピントビーンズ。
当時の酒場や工夫宿では、ただ塩水で煮ただけのパサパサした不味い豆料理として出され、荒くれ者たちから親の仇のように嫌われている不人気食材の筆頭だ。
だが、前世の飲食チェーンで数え切れないほどのレシピ開発に携わってきた俺からすれば、これほど都合のいい食材はない。
(デンプン質が豊富で、肉の脂を無制限に吸い込むスポンジ。
安価で腹に溜まり、スパイスと結合させれば最強の旨味爆弾に化ける……!)
ベーカリー裏へ戻ると、オットーに頼んで石窯の焚き口の真横、一番火力の強い特等席を借り受けた。
据え付けたのは、昨日金物屋で買ったもう一つの大鍋だ。
仕込みを開始する。
まずは刻んだ大量の牛脂を大鍋で熱し、透明な油の海を作る。
そこに、荒く叩き刻んだスネ肉のミンチと、刻んだタマネギを投入。
――ジュワアアアアッッッ!!
爆発的な煙とともに、肉とタマネギの甘い焦げ目が鍋底に焼き付いていく。
そこへ、水戻ししておいたピントビーンズを豪快にぶち撒けた。
さらに、トマトペーストと砕いた乾燥唐辛子、独特のエキゾチックな香気を放つクミン、オレガノ、ニンニク、粗挽き黒胡椒を容赦なく投入する。
オットーの石窯の猛烈な余熱で、グツグツと何時間も煮込み続ける。
やがて、豆の細胞が崩壊し、溶け出したデンプンが牛脂と肉汁、トマトの酸味を巻き込んで激しく乳化していった。
――ボコッ、ボコッ、ボコッ……。
赤黒いマグマのような気泡が弾けるたび、裏庭一帯に脳髄を痺れさせるようなスパイシーで重厚な香気が充満する。
味見のためにスプーンですくい、口へ運ぶ。
(……完璧だ)
濃厚極まりない肉の旨味。
舌の上でトロリと解ける豆のクリーミーな甘み。
それを暴力的な牛脂のコクが包み込み、最後に喉の奥をチリペッパーの鮮烈な辛みが焼き払っていく。
原価計算は一食あたり一セント未満。
タダ同然の屑肉と捨て値の乾燥豆が、極上の濃厚チリコンカンソースへと魔改造された瞬間だった。
夕暮れ五時。
駅前の目抜き通りから外れた、あの路地裏。
手押し車の鉄板に薪の炎が爆ぜ、油鍋の中で牛脂が澄んだ黄金色に煮えたぎる。
そしてその横には、赤黒い湯気をモウモウと噴き上げるチリの大鍋。
通りには、昨夜の噂を聞きつけた五十人以上の工夫たちが、すでに殺気配を漂わせて列を作っていた。
「おい、小僧! 今日もあの黄金の芋はあるんだろうな!」
「早くしろ! 喉がカラカラなんだよ!」
飢えた獣のような男たちの最前列に、腕組みをした用心棒のガスが仁王立ちしていた。
大男は屋台の異変に即座に気づき、傷のある眉をピクリと跳ね上げた。
「……おい小僧。なんだその血だまりみてえな鍋は。
昨日とは違う、やけに鼻をつくスパイシーな匂いが漂ってやがるが」
俺は不敵に笑い、手押し車の木枠をドンと叩いた。
「今夜からの新提案だ!
プラス三セントで、ポテトやバーガーの上にこの特製スパイシーミートソースを豪快にぶちまけてやる!」
「あぁん? 三セントだと?」
ガスが露骨に顔をしかめた。
「ふざけんな。バーガーが十セント、ポテトが五セントだぞ。
ただのソースのちょい足しに三セントなんざ、ボッタクリもいいところだ」
背後の鉱夫たちも、ざわめきと不満の声を漏らす。
開拓地において、銅貨三枚は決して小さくない端金だ。
「高いかどうかは、てめえの舌で確かめてから言え」
俺は間髪をいれずに動いた。
針金カゴですくい上げたポテトを、高温の牛脂へ沈める。
シュワアアアッ! とわずか二十秒。
極限のカリカリに揚げ上がった黄金のスティックを油紙の皿へ山盛りにする。
そこへ、お玉一杯分の煮えたぎる赤黒いチリソースを、ドロリと豪快にぶちまけた。
仕上げに、オットーの店から融通してもらった硬質チーズを、おろし金で粉雪のように削り落とす。
――ジュウッ……!
熱々のチリの熱気で、削りチーズが瞬時にトロリと溶け崩れ、肉と豆のソースと一体化していく。
【チリチーズフライ】の完成だ。
湯気とともに立ち上る、暴力的なまでのスパイスと牛脂の芳香。
それをガスの鼻先へ、無造作に突き出した。
「食ってみろ。文句はそれからだ」
ガスは毒づこうと口を開けかけたが、鼻腔を貫いた凶悪な匂いに喉仏を詰まらせた。
抗えない。本能が、胃袋が、この未知の赤い塊を貪り食えと絶叫している。
大男は太い指先を伸ばし、チリと溶けたチーズがべっとりと絡みついたポテトを鷲掴みにした。
そして、躊躇なく口の中へ放り込む。
――カリッ、ジュワッ、トロォッ……!
ガスの巨躯が、雷に打たれたように硬直した。
「――――ッ!?」
前歯を突き抜けるポテトの凶悪なクリスピー食感。
直後、舌の上へ濁流のように雪崩れ込んできたのは、牛脂を吸い尽くして濃厚さを極めたスネ肉と豆の爆発的な旨味だった。
チーズの濃厚なコクと塩気が追い打ちをかけ、口内が圧倒的な快楽で満たされる。
だが、それだけでは終わらない。
一拍遅れて、燃え盛る火炎のようなチリペッパーの辛みと、クミンの鮮烈な刺激が舌の根元を直撃した。
(な、なんだこれ……ッ!?
熱い! 辛ぇ! けどうめえええええッ!!
肉の脂と豆の甘みが舌にねっとりへばりついて……喉が、喉が火を噴きそうだ……ッ!!)
ガスの瞳孔がカッと見開かれた。
指先を真っ赤に染めながら、二本、三本と狂ったように口へ押し込む。
カチカチに硬かったはずのピントビーンズが、信じられないほど滑らかなソースとなってポテトに絡みつき、胃袋へと落ちていく。
そして――。
昨日の比ではない、暴力的なまでの『熱狂的な渇き』が喉を襲った。
「ぐっ……がああああッ! 喉がッ! 喉が燃えるッ!!」
ガスは皿を放り出すと、サルーンの扉へ向かって猛突進した。
数秒後、両手に持った二つの分厚いジョッキのビールを、喉を鳴らして一気に流し込む。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、プハァッッッ!!
「……っあああああぁぁぁッ! 死ぬほど美味ぇえええええッ!!」
ビールの冷気と炭酸が、喉の炎を一瞬で鎮圧し、至福の快感を脳髄へ叩き込む。
だが、口内の辛みが消え去ると同時に、再びあの濃厚なチリチーズの味が狂おしいほど欲しくなる。
完全にトランス状態に陥った用心棒は、空のジョッキを高く掲げ、列をなす鉱夫たちへ向けて咆哮した。
「おい、てめえら!! 耳の穴かっぽじってよく聞けッ!!
今夜は絶対に三セント余計に出せ!
この赤いソースとチーズを芋にぶっかけねえ奴は、男でも人間でもねえぞッ!!」
その絶叫が、群衆の理性を完全に吹き飛ばした。
「おい、俺の芋にもその赤いのをかけろ!」
「三セントだろ、取っとけ! バーガーの上にもぶちまけてくれ!」
「肉と芋、両方にチリだ! 銀貨を釣りなしで受け取れッ!」
路地裏が、昨日を遥かに超える狂乱の坩堝へと叩き落とされた。
鉄板にパティを置き、テコ式プレスをドゴォン! と叩き落とす。
ポテトを揚げ、油を切り、チリソースをドロリと注ぎ、チーズを削る。
客の手から次々と銅貨と銀貨が投げ込まれ、手押し車の売上缶へ雪崩れ込んでいく。
バーガー十セント+チリ三セント=十三セント。
ポテト五セント+チリ三セント=八セント。
客単価が一気に一・三倍から一・五倍へと跳ね上がる。
原価一セント未満のソースが、狂ったように純利益を叩き出していく。
「チリチーズフライ一丁!」
「チリバーガー、お待ち!」
俺は阿修羅のように両腕を動かし続けた。
喉の奥を焼かれた工夫たちが、次々とサルーンへ雪崩れ込み、酒場の店員たちが悲鳴を上げながらビールの樽を開栓していく。
相乗効果とトッピング課金の完全なる勝利。
用意した百五十食のバーガー、山のようなポテト、そして大鍋いっぱいのチリソースは、営業開始からわずか二時間足らずで、文字通り一滴も残さず消え去った。
夜の九時。
狂乱の宴が終わり、路地裏に再び氷点下の静寂が戻ってきた。
手押し車のブリキ缶を開ける。
ずしりと、昨日までとは比べ物にならない重みが腕に伝わってきた。
手持ち資金は、一晩で一気に五十ドルを突破していた。
開拓地の労働者が二ヶ月間、血反吐を吐いて働いてようやく手にする大金。
十八歳の少年が、手押し車一つで叩き出した驚異的な数字だ。
「……勝ったぞ」
俺は冷えた夜気の中で息を吐いた。
だが――その勝利の余韻は、数秒と持たずに霧散した。ベーカリーの裏庭へ手押し車を引き戻し、作業台の前に立った瞬間、俺の背筋に冷たい汗がツーと流れた。
目の前には、油とスパイスが黒く焦げ付いた、巨大な空の大鍋。
(……待てよ)
思考の歯車が、急速に不吉な回転を始めた。
今夜、チリは大爆発した。
客は明日も間違いなくチリを求めて押し寄せる。
噂は広まり、明日は百五十食どころか、二百食分の仕込みが必要になるはずだ。
だが――そのために必要な作業工程は?
五十ポンドのピントビーンズを選別し、冷水で半日かけて芯まで水戻しする工程。
解体場から仕入れた筋だらけのスネ肉を、手作業で細かくミンチに刻む工程。
大量のタマネギを刻み、何種類ものスパイスを計量して配合する工程。
そして何より、焦げ付きを防ぐために、灼熱の石窯の前で数時間ぶっ通しで大鍋を木べらで攪拌し続ける工程……。
(ティムは、すでにポテトのカットと下揚げ、パティの成形で完全に手一杯だ)
あいつにこれ以上の工程を振れば、動線が崩壊してミスが頻発する。
ならば、この膨大なチリの仕込みを誰がやる?
俺だ。
俺がやるしかない。
営業で酷使した両腕の筋肉が、鉛のように重く軋んでいた。
関節の奥で、腱が熱を持ってジンジンと疼いている。
(明日の朝六時から仕込んでも……間に合わないぞ。
仕込みを終わらせるには、今夜の睡眠時間を削って……深夜二時から火を入れるしかない……?)
脳裏に、記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
本部から降って湧いた新メニューの大ヒット。
跳ね上がる売上。
だが、本部は人員の補充を拒否し、仕込みに追われた俺は睡眠時間を二時間、一時間と削り――最後は厨房の床に倒れ伏した。
ヒュウッ、とロッキー山脈からの凍てつく夜風が吹き抜け、裏庭の薪をカタカタと揺らした。
闇の中、黒く冷え切った大鍋が、まるで人間の命を吸い尽くす怪物のように、静かに口を開けて佇んでいた。
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