第10話 神の名はテンチョー
凍てつく朝の風が、薄汚れた僕のシャツを容赦なく切り裂いていく。
井戸水で顔の泥を落としたけれど、手足の震えはちっとも止まらなかった。
寒さのせいじゃない。
恐怖だ。
体のあちこちに残る、昨日蹴られた青あざがズキズキと痛む。
僕は自然と両腕を頭の上に掲げ、いつでも激痛に耐えられるよう、背中を丸めて小さくなった。
「お、親方……!
オレ、何から覚えればいいですか?
まず雑巾がけですか? それとも、殴られながら目で盗むんですか……!?」
息が震える。
失敗すれば、重い革靴が脇腹にめり込む。
ノロマだと怒鳴られ、硬い樫の棒で頭を割られる。
それが僕の知っている世界のすべてで、生きるための絶対の掟だったから。
だけど、目の前の黒髪の青年は、鼻で短く笑っただけだった。
「親方じゃねえ、店長と呼べ」
「え……? て、てんちょー……?」
聞いたこともない言葉だった。
オヤカタでも、ダンナでもない。
テンチョー?
「ここは職人の道場でも、ヤクザの組でもねえ。職場だ。
俺はお前を殴るために拾ったんじゃない。
『見て盗め』なんてのはな、教育のコストをサボる無能の言い訳だ」
青――店長は、呆然とする僕の背中をポンと押し、木枠の手押し車の前へ立たせた。
そこには、黒光りする分厚い鉄板と、見たこともない鉄の棒が組み合わされた奇妙な機械があった。
「今から教えるのは、職人技じゃない。ただの手順だ。
感覚でやるな。全部、数字と動作で覚えろ」
店長は鉄の網の上に、洗ったジャガイモを一つ置いた。
「指示その一。イモを網の真ん中に置け。
右手でレバーを握り、真下に体重を落とせ。
ガシャンと音が鳴ったら手を離せ。以上だ。余計な力は一切入れるな」
怒鳴り声も、抽象的なお説教もない。
あまりにも短く、異常なほどはっきりとした指示。
僕は恐る恐る、冷たいオーク材のレバーに手を伸ばした。
殴られないか、店長の顔色をチラチラと盗み見ながら、言われた通りに真下へ体を沈める。
――ガシャンッ!!
乾いた重低音が響いた。
大きな鉄の塊が落ちて、硬いイモをペシャンコに押し潰す。
パラパラパラッ!
「……えっ!? 切れた……!?
オレ、包丁も使えないのに……なんで……!?」
下の水桶を覗き込んで、僕は息を呑んだ。
そこには、まるで何年も修行したベテランの料理人が切ったみたいに、太さも長さも綺麗に揃ったジャガイモが転がっていた。
「お前の腕前なんて最初から期待してねえよ。
仕組みが正しければ、誰がやっても同じ結果が出るんだ。
次、指示その二」
店長は水桶を指差した。
「水の中で、両手を左右に五回振れ。
デンプンを洗い流すためだ。六回以上は振るな、時間の無駄だ」
「ご、五回……!」
「指示その三。網カゴにイモをすくい、油に沈めたら、頭の中で一から三十まで数えて引き上げろ。
三十秒ジャストだ」
五回。三十秒。
魔法じゃない。ただの数字だ。
だけどその数字の通りに体を動かすだけで、僕の手から、黄金色に輝く奇跡みたいなイモが次々と生まれていく。
ガシャン! ガシャン! ガシャン!
僕が動くたびに、心地いい金属音が裏庭に響く。
あんなに恐ろしかった仕事が、まるでパズルを解いているみたいに、僕の指先の中でカチリと噛み合っていく。
だけど――調子に乗ってしまった僕の手が、油鍋の縁に触れた。
バシャッ!
金網カゴが大きく跳ねて、煮えたぎる牛脂が作業台の床へ激しく飛び散った。
「――っ、ひぃっ……!!」
頭の中が真っ白になった。
僕は持っていたカゴを投げ捨て、頭を抱えて地面にうずくまった。
ぎゅっと目を閉じ、歯を食いしばる。
(殴られる! 蹴られる! 骨を折られる……っ!)
「ごめんなさい! ごめんなさい店長!
オレの給料から引いてください! 何発でも殴ってください……っ!」
激痛を待った。
だけど――いくら待っても、重い靴底は飛んでこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、木箱をズズッと引きずる乾いた音だった。
「ビビるな。油が跳ねたのは、お前の腕のせいじゃない」
「……え?」
恐る恐る腕の隙間から顔を上げると、店長は怒るどころか、布切れで淡々と飛び散った油を拭き取っていた。
「油鍋と、カゴを置く木箱の距離が半歩遠かったんだ。
だからカゴを持ち上げて横に振る距離が長くなって、縁に当たった。
ほら、木箱を鍋の真横、あと十センチ手前に寄せろ」
店長は僕の手を引いて、新しい位置を指差した。
「持ち上げる、真横にスライドさせる、置く。これで終わりだ。
これで、油をこぼす物理的な理由が消えた。次行け」
「……お、怒らないんですか……? オレ、油を無駄にしたのに……」
「怒鳴ったところで、こぼれた油は戻らねえし時間の無駄だ。
ミスが起きたら人間を責めるな。動線と配置の欠陥を疑え」
僕の頭の中で、世界の常識がガラガラと崩れ去っていった。
失敗したら人間が悪いんじゃない。
場所と仕組みが悪かったんだ、とこの人は言う。
工房の木戸の隙間から見ていたパン屋のオットーの親父さんが、呆気にとられた顔で煙草の煙を吐き出していた。
「……おいおい、嘘だろ。
あのクソガキが、半日で一人前の職人みてえな顔して仕込みを回してやがる……」
夕方五時。
ロッキーの空が真っ赤に燃え上がる頃には、山のような仕込みが全部終わっていた。
百五十個の丸い肉の塊。
下揚げを終えた、眩しいほどの黄金のポテトの山。
そして、パン屋の親父さんがくれた百五十個の丸パン。
僕の手で、これ全部をやり切ったんだ。
じんわりと胸が熱くなる。
すると店長は、手押し車の鉄板で焼きたての分厚い肉をパンに挟み、揚げたてのポテトと一緒に油紙へ包んで、僕の胸元へ押し付けてきた。
火傷しそうな熱気と、あの日僕を救ってくれた、あの甘くて凶悪な牛脂の香りが立ち上る。
さらに、店長はポケットから銀色のコインを取り出すと、僕の手のひらにチャリンと落とした。
――五十セント銀貨。
大人の工夫が、暗い穴倉でツルハシを振るってようやく貰える大金。
僕みたいな使い走りが、一週間殴られ続けても絶対に触ることすら許されない、眩しい銀の光。
「はい、今日の日当と賄いだ。持って帰れ」
「…………え?」
頭が追いつかなかった。
銀貨の冷たさと、包み紙の熱さが、手のひらでぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「な、なんで……!?店長、オレ、まだ明日の薪割りも、店長の靴磨きもしてません!……こんな大金、貰えません……っ!」
震える手で銀貨を返そうとする僕の肩を、店長は乱暴に掴んで、裏庭の外へと押し出した。
「定時だ」
「て、ていじ……?」
「残業代の出ない無駄な労働なんざ、経営者の怠慢と犯罪だ。
お前と契約した仕事は、きっちり時間内に終わった。
だからこれは、お前が正当に稼いだ金だ。さっさと帰って、腹いっぱい食って寝ろ」
背中を押され、僕は冷たい路地に放り出された。
手のひらに残る、五十セント銀貨の確かな重み。
そして、油紙を突き抜けて僕の胸の奥まで温めてくれる、あたたかい肉とポテトの匂い。
使い潰されるゴミでも、代わりの利く家畜でもなく。
僕は今日、生まれて初めて、一人の『人間』として扱われたんだ。
「あ…………っ」
喉の奥から、熱い塊がせり上がってきた。
止めようとしても、全然止まらなかった。
ポタポタと、大粒の涙が僕の泥だらけの頬を伝って、油紙の包みの上にこぼれ落ちていく。
「う……っ、うぁああ……っ!ありがとう……ございます……店長……っ!明日も……明日の朝も、絶対に……早く来ますから……っ!!」
僕は宝物のように包みを胸に抱きしめ、袖で涙を拭いながら、夕闇のデンバーの街を全力で駆け抜けた。
神様なんて教会にしかいないと思ってた。
だけど違った。
僕の神様は、路地裏の手押し車の前で、不敵に笑うあの『店長』だ。
冷え込む夜風を切り裂きながら、僕は誓った。
あの人のためなら、この腕も、足も、命だって全部差し出してやる、と。
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