74. 運ぶ船
翼はいま、別れを告げようとしているのだろうか。
言葉の続きを待つのが、怖かった。
翼の存在を知ったその日から、ツバサは予感していた。
自分が運命と感じた出会いは、兄の司に続くものであることを。
けれど、可能性から目をそむけた。
もしこの出会いさえも、兄の手のひらの上にあるものだとしたら。
目の前にいる、そのままの翼が消えてしまいそうで。
兄とのか細い思い出が、また揺らいでしまいそうで。
怖かったのだ。
けれどもう、逃げるのは終わりだ。
「教えてください、翼さん」
ツバサは、まっすぐに彼を見つめて言った。
ゆっくりと翼が応える。
「"愛している"――中野司が、君に伝えたかった言葉はそれだけだ。その思いを籠めて彼は、僕をここまで導いてくれた」
「待ってくれ!」
北川が割り込んだ。
野暮は承知だ。しかし、どうしても確かめなくてはならない。
「教えてくれ。君は誰だ?それが、最後まで分からなかった。君は、君自身が……中野司ではないのか?」
「違う」
翼は首を横に振った。
「僕は中野翼だ。他の誰でもない」
翼は自分の鼓動を確かめるように、その胸に手を当てた。
「中野司はもういない。僕が抱いているのは、彼が焼き付けた影だ。あの人は最後を迎えるその時に、無位の双眸の力を借りて、僕を創り出した。思いを運ぶ、船として」
中野司……彼の魂はここにはない。
どこか遠い場所で、いまは静かに眠っているのだろう。
そう翼は、彼の生まれ変わりでもなければ、亡霊でもない。
中野司が意図せず、こぼした涙のしみだ。
中野翼は、決して司に望まれて生まれたわけではない。
ツバサに会いたい。
いずれ騎士として戦いの場に赴く、彼女を支えるだけの力が欲しい。
争いのない場所に行きたい。
今の人生とは違う、平凡で穏やかな日々を送りたい。
それら矛盾する彼の想いが、翼を生んだ。
中野翼は、中野司の弱さの結晶だ。
もし司が翼の存在を知ったとしたら、深く自分を恥じるだろう。
しかし、翼は感謝している。
彼のくれた命に、そして出会いに。
そして今に至るまでの道は、果てしなく長いものだった。
何年?何百年?何千年?
中野翼は彷徨っていた。
ひとかけらの意思が、肉体と精神を得るまでには、それだけの年月が必要だった。
「翼さん。ありがとう。受取りました。兄さんからの言葉……」
もう十分だから、とツバサは無理に微笑もうとした。
「北川さん、リトさんもう一度お願いします。わたしに力を貸して下さい」
傷ついた翼はもう、世界を繋ぐ門としての力を失っている。
これが今生の別れになるだろう。
けれどなんとしても、翼を元の世界に送り届けなくてはいけない。
「翼さん、わたしの手をしっかり握っていて。わたしの力を送ります。ぜんぶ受け止めてください」
その時、足音がひとつ近付いてきた。
「やっと追い付いてきてみりゃ、愁嘆場の真っ最中か。けったくそ悪い」
悪態をついたのは、ダイムだった。
しかし、彼を見とめた翼は笑顔になった。
「ダイム、手助けを頼みたい」
「お前は司さんじゃない……自分でそう言っただろう?削りカス風情が、気安く何言ってやがる」
まったく、ダイムらしい。
感傷を振り払うかのように、噛みつくように言葉を投げつける。
「タダ働きはさせない。見合うだけの報酬を払う」
「ハッ、自分の身も救えないゴミくずが。俺に何をくれるっていうんだ?」
こうしている間にも翼の体からは、残された力、その光の粒がこぼれ落ちていく。
「k997の11.19だ。三匹目の子牛の額に穴をあけて、その左側を覗きこめ。探しものはそこで見つかる」
うわ言にしか聞こえない、言葉の羅列。
しかしダイムとリトは、その意味を理解したようだった。
「十分すぎるな」
リトが呟いた。
「フン……で、俺に何をさせたい?」
「ダイム、僕と戦え」
この土壇場の際も際。
ようやく翼の鍛錬は、おぼろげながら形になった。
「来たれ、陽光」
翼はスペルをその唇に乗せる。
その右手に、青い炎が現れる。
残り少ない命そのものを削り、ようやく出現させた光だった。
「トチ狂ったか?」
ダイムが驚きに目を見開く。
その翼の行動は、残り少ない時間を、さらに縮める自殺行為にしか思えない。
「ナカノツバサ、北川、なぜあいつを止めない?」
リトの当然の問いかけ。
しかしふたりは動かなかった。
翼の発現させた炎の色。
ツバサの持つ色とまったく同じ青だ。
無位の双眸の力、そして中野司の影から決別し、翼は自分の色を定めたのだ。
それは何よりも、強烈なメッセージだった。
「もう決めた。諦めない――ツバサのことを、この世界を。僕は消えたりしない。ここに留まる」
自分に言い聞かせるように、翼は決意を口にした。
ツバサの隣で生きる。
そのためには、『アカバネ』世界を、彼自身の力で揺らさなければならない。
全身全霊で、自分の存在を叫ぶのだ。
仮そめの肉体を捨て去り、産声を上げ、中野翼はこの『アカバネ』世界にもう一度生まれ落ちる。
産みの痛みを、翼は潜り抜けなくてはならない。
そうだ。これは一か八かの賭けではない。
だから、もう祈りはしない。
愛して、迷って、傷って。
笑って、飯を食って、走って、眠った。
そんなことを積み重ねていくのが人生なのだとしたら、翼はもうこの世界でそれを手に入れている。
翼は消えたりなんてしない。
ツバサに、北川に、蝋月に、国本女史に、そして阪田兄弟にも。
この『アカバネ』で出会った者たちと、翼は繋がっている。
「さぁ、かかって来いよダイム。さっきはよくもやってくれたな。この傷を100倍にして返すぜ」
まったく慣れない啖呵を切った。
しかし、堪え切れず吹き出してしまう。
釣り込まれてダイムも白い歯を見せる。
「ったく、しまんねえ野郎だな。返り打ちにしてやるよ」
怖い。
けれど、それ以上に嬉しい。
目の前に、新しい世界が拓けている。
翼はいま期待に、胸を躍らせている。
そして、ツバサも動いた。
「お手伝いをさせてください。わたしが支えます。だから思いっきり撃って」
そしてツバサは許可を求めるように、ダイムを見た。
「助太刀上等。まとめて来なよ」
ダイムは鷹揚に頷いた。
光をおびた翼の右手の甲に、ツバサは自分の手のひらを重ねた。
今度こそ完全にふたりの力は結びあい、ひとつになる。




