75. 夜空の月
「お前は、三月十三日の銀鬼・中野司の忘れ形見なんだろう?司さんの名が泣く。ちっとは頑張れ」
「面目ない……」
ダイムに、汗ひとつかかすことができなかった。
攻撃は届かず、防御はすべて打ち破られた。
1分も経たないうちに、翼は倒れ空を仰いでいた。
善戦したなんてとても言えない。TKO負けだ。
負傷している北川に代わって、リトが翼を背負ってくれた。
「俺が壊して、リトが運ぶ。まったく、至れり尽くせりだ」
嫌みを言うのはダイムだ。
屋敷に辿りついて、そこでやっと翼は倒れることができた。
「10年たったら、また来い。相手してやる」
それがダイムの別れの言葉だった。
リトは更に短く、「またな」と一言だけ。
翼の中に今もある、無位の双眸は力を失った。
阪田兄弟は、そう判断した。
本当はすぐにでも、翼から聞いた宝の隠し場所へ飛んでいきたいに違いないのだろうが。
まずは帝都で待つゆらぎ姫の元へ、報告を持ちかえらねばならない。
海千山千の彼らのことだ。あえて頼むまでもない。
今回の事件の発端となった、無位の双眸について。
そして中野翼について。
差し障りのある部分は適当にボヤかして、報告してくれるだろう。
人間らしい気分を取り戻すのには、しばらく時間が必要だった。
この痛みは、生まれ変わりの証しだった。
いまの翼の流れる血は、間違いなく赤い。
今度こそ、ツバサの治療はよく効いた。
ツバサと北川が交代で、翼の枕元についていてくれた。
切れ切れの夢を見た。
目を覚まし、水を飲んだ。
一日たって、粥を啜ることもできた。
真昼の空、遠く微かに見えていた白い月が、夜の訪れと共に輝きだす。
ツバサは翼の変化を、そう例えた。
軋む体と、この急激な変化に追いついていかない心。
そのすべてを良しと思える。
混乱も痛みもすべて、『アカバネ』世界との和解の印なのだ。
中野翼は、この世界の住民としてここにいる。
***
少し時を巻き戻して。
決死の覚悟で帝都へ辿りついた国本女史を迎えたのは、のんびりとボードゲームに興じる蝋月と某だった。
「な、何をやってらっしゃるんですか……?」
怒る気にもなれない。
張り詰めていた緊張の糸は、そこでプツンと切れた。
「そろそろ、来るころだろうと思ってた」
蝋月はゲームの盤面から顔も上げない。
「何をのんびりしたことを!こうしている間にも皆さまは……一刻も早く、東菜種ヶ原に帰りましょう!」
某の存在も忘れて、国本女史は思わず大声をあげる。
「急いだところで、もう間に合わない」
「それでもです。早く、早くツバサお嬢様のところに戻らないと!」
「落ち着いて。ほんの数十分前に、阪田弟から早文が届いた。ツバサちゃんも、中野翼君も、ついでに北川君も全員無事だ。阪田兄弟の依頼は無事終了。彼らがわたしたちと敵対することは、もうない」
「良かった」
ヘナヘナと国本女史は、膝から崩れ落ちた。
「お嬢様と北川君がやってくれたんですね。わたくしが帝都までやってきたのは、まったくの無駄足だったわけですか……まったく……本当に……もう……最高です」
「無駄なんかじゃないさ。国本さんにはこれから一仕事してもらう」
わたしもただ遊んでたわけじゃないよ、と蝋月は頬を膨らませる。
「わたしの仕事……?」
「お、もうこんな時間か。すまん、蝋月っちゃん。そろそろ行くわ。ワシは外すけどゆっくりしてってな」
ふたりの様子を静かに見ていた、某が立ちあがった。
「奥さんも遠慮せんと、まずは上着脱いで、ここ座って、茶飲んで、甘いもんでも食べえ。いったん落ちつこ、な」
「某様……?」
彼は、どこまで知っているのだろう。
しかし国本女史が問いかける間もなく、某は行ってしまった。
「……奥さんって呼ばれちゃったです。まぁいいですが」
国本女史がボヤく。
アハハ、と蝋月が笑った。
散らかった部屋。結局ティーセットも茶葉も見つからなかった。
仕方なしにふたりは、水を飲みながら焼き菓子を食べる。
そして、蝋月は説明を始めた。
「それで?田沼氏との会話で着想を得た蝋月様は、これから何をなさろうとしているんですか?」
国本女史の問いかけに、蝋月はクスリと笑う。
「朗報を聞いて、いちばん穏やかなプランに落ち着いた」
蝋月のプランとやらの詳細を聞いて、国本女史は首をひねる。
「それをやることに、何の意味があるのか?……正直、理解しかねます」
「意味はないかもしれないね。ま、軽い嫌がらせってやつです」
蝋月が肩をすくめる。
「で、蝋月様の個人的な腹いせのために、私は何をお手伝いすればいいんでしたっけ?」
「あれ?わたしの説明、理解できなかった?」
「あまりのことに、私の耳が異常をきたしたのかと思いまして」
じゃあもう一回言うよと、一言一句たがわず蝋月は先ほどのオーダーを繰り返した。
「デッかいモンスターが必要なんだ。そこそこ強くて、できるだけ派手で珍しいやつ。それを一匹生け捕りにして、わたしの言う場所に置いてきてくれ。それが、国本さんのミッションだ」
残念ながら、聞き間違えではなかったようだ。
国本女史は深いため息をついた。
「それが、いちばん穏やかなプランなんですか」
「うんっ!」
「後学のために教えてください。翼さんが無事でなかったときに、実行しようとしていた穏やかでない方の計画……それはどんなものだったんですか?」
「んとね。まずは田沼の言っていた、翼君に代わる新しい門を奪い取り独占する。そして、膨大な魔力を送りつけてやるつもりだった……向こうの世界を歪ませるほどに」
あくまでも蝋月の口調は明るい。
「あいつらの言う、現実を作り変えてやるのさ。俺たちは『アカバネ』の作り手だ、神だ、なんて。向こうの彼らの、チンケな理屈が通るなら。わたしが逆にそれを彼らにしてやる」
「本当、最低です。聞いた私が馬鹿でした」
深いため息を、国本女史がついた。
「大魔王に転身なさるおつもりだったんですか?付き合いきれません」
「他にファンシーなプランもあるんだけど、聞きたい?」
「話したければ、ご勝手にどうぞ」
「まずね、国中から腕の良い画描きを、10ダースかき集めて雇い入れる。彼らに中野翼の出てくる少年漫画を描かせるんだ、山ほどね。どれかひとつでいい。扉が開いたら、その新しい世界まで出かけて行く。その世界の中野翼君を、ここに引っぱってくるんだ」
うまくいくとは思えない。
けれどたしかにファンシーなプランだ。
「翼さんの出てくる漫画ですか……心惹かれますね。読んでみたい」
「アイデアだけなら他にもあるよ。決めたんだ。翼君が消えたとしても、必ず取り戻す。そのためなら、なんでもやる。どんなに馬鹿なことでも、ズルいことでも」
「ぜんぶお嬢様のためですか」
「わたし自身のためさ」
昂然と胸を張り、蝋月は答えた。
「ツバサちゃんはわたしの娘。ならば兄貴の司君も、わたしの息子だ。そして司君から生まれた翼君は、わたしの孫になる。孫は無条件でかわいい。デキが悪いところが、なお可愛い。可愛い孫のためなら、わたしはなんだってする」
「蝋月様がお爺さんなら、嫁の私はお婆さんになってしまうじゃないですか。断固抗議します!」




