72. 10桁の数字
リトが北川に言ったのは、彼の気を削ぐためのデマだった。
山井蝋月は拘禁などされていない。
帝都で無事、余目某との再会を果たしていた。
帝都にある本宅も、あの屋敷と同様に広く乱雑だった。
余目某は、ここに一番弟子と共に暮らしている。
しかし、その同居人は休暇中で家を空けていた。
「まずは、謝っておかなあかんな。わしは蝋月ちゃんのとこ、邪魔しようと思ってたんや」
カラリとした某の告白。
「アレがなんなのかは知らん。でも司の匂いがするもんを、ワヤな目に遭わせるんは、どうしても嫌やってん。大人しゅう、向こうに帰ってもらいたかった」
白磁のような肌、左右異なる色をもつ神秘的な瞳。
黙っていれば、『アカバネ』一の美形と言われる彼である。
いまは子どもっぽく、眉をへの字に曲げている。
「それに遺物を排除し、秩序を守る……正しいこというてるんは姫さんの方や。わしが妨害なんて、できひんやろ」
なぜ某が、中野翼の存在に気付くことになったのか。
それはやはり、ゆらぎ姫の線だった。
そして、ゆらぎ姫が今回の件に関わることになったのは、いつかどこかの中野翼が書いた、自作自演の手紙のせいだ。
元・評議会員の山井蝋月は、最悪の術具・無位の双眸を復活させようと企んでいる。
その告発はありえないと、ゆらぎ姫は思った。
だが少しでも可能性があるならば、動かざるおえない立場なのだ。
「姫さんに話すちゅうことは、わしとサクラちゃんにバレるちゅうことやで?あれほど静かに動くのに、向いてない子もおらんもん」
「いつ確信を持った?中野翼が中野司に繋がるものだと」
「確信なんざしとらん」
蝋月の緊張を断ち切るように、某はのんびりと言葉を返す。
「でも蝋月ちゃんが、遺物みたいなもん振り回して、トロ臭い真似するわけがない。無位の双眸とは関係なしに、アレは蝋月ちゃんにとって大切なもん……ちゅうことやろ?」
某の問いかけに、蝋月は無言でうなずいた。
「それに集まった面子は全員、司の関係者や。少し考えたら分かるやん」
蝋月っちゃんとは付き合い長いからなぁ、と某は微笑む。
「……でもまだ、なっちゃんに話せないことがあるんだ」
それは『アカバネ』の存在だ。
「昔からいうやろ。明日のことは明日考えって。蝋月っちゃんの隠し事で、いつかわしは困ったことになるかもしれん。でもそれは今やない。この瞬間、わしは何も知りたいとは思わん」
「ありがとう、なっちゃん」
蝋月はその「ありがとう」のひとことに、たくさんの思いを込めた。
「でもな、わしのお節介なんて何にもならんかった。ほんに、ヘンクツや中野翼君は。人の言うこと、ちっとも聞かん」
そして某は、卓上のティーポットに手を突っ込んだ。
中からはなんと、封書が出てきた。
「これ、蝋月っちゃん宛。中野翼君からのな」
そして、某はさりげなくその場を外す。
文面は2行のみだった。
書かれていたのは、03から始まる10ケタの数字。
そして、「端末を使ってください」とひとこと。
ここは帝都だ。
世界を繋ぐ翼からも、彼と強く結ばれているツバサとも遠く離れている。
ここは通信圏外だ。
蝋月が組み上げ呪法を施した端末は、ここでは役目を果たすことができないはずだった。
しかし、いつかどこかの中野翼は、蝋月に悟られないように橋をかけた。
どこまでも、人を喰った真似をしてくれたものだ。
ふたつ折りの端末を開き、蝋月はその10ケタの数字を念じた。
死んでいるはずの回線は、すんなり繋がった。
回線の向こう側の相手は、待ちかねていたようだ。
コール音が鳴る間さえなく、相手は応えた。
「はい、こちら週刊少年ファイブ編集部、編集部員の田沼利人です」
「こちら異世界より、山井蝋月」
予想もしていなかった。
電話の相手は、『アカバネ』の担当編集者だ。
なぜ翼は、蝋月と田沼を引き合わせようと思ったのだろう?
はじめましての挨拶は抜きだった。
田沼は、現状報告を始めた。
「もう間もなく、こちらの現実世界と『アカバネ』のチャンネルが閉じられます。中野翼君は門としての役割を離れました」
田沼は、それをニュースのように平板に読み上げた。
しかし、と田沼は言葉を続けた。
「しかし、中断は一時的なものです。幸いにも後任者が見つかりました。スイッチが切り替わり次第、通信は再開するでしょう。計画に支障はありません」
後任者?計画?
彼は何を言っているのだろう?
「だから、山井さんご安心ください」
余計なことはせずに、黙ってそこで座っていろ。
田沼は蝋月に向かって、そう言っていた。
中野翼は、田沼にとって終わってしまった事物でしかないらしい。
「ご報告ありがとう。田沼さん、お仕事がんばってくださいね。六坂先生にも、よろしくお伝えください」
馬鹿馬鹿しい。時間の無駄だ。
得意の憎まれ口を叩く気すら起こらない。
蝋月は早々に、この通話を打ち切ろうとした。
「そのメッセージをお伝えすることはできません。六坂先生は何も知らないのでね」
六坂ダイの役割は、『アカバネ』を描きあげた時点で終わっている。
そう田沼は言った。
彼はひとり、蚊帳の外に置かれている。
自分が描いた物語が、いまどんな展開を見せているのか何も知らずに。
「こちら側にいる我々にとっては、『アカバネ』は終わってしまった作品なんかじゃない。どこまでも続く現実だ。中野翼君も、替えの効く部品じゃない。わたしの大切な友人なんだ」
「無駄ですよ。エンディングは覆らない。中野翼、彼は調和のとれた作品世界を乱すノイズだ。あの世界に、彼の居場所なんてない」
蝋月の沈黙を反意と取ったのか、説き伏せるように田沼は持論を語り出した。
「優れた作品はひとつの川だ。始点が決まれば、おのずと終点も定まる。少年マンガは最初のキャラクターの造形が肝心なんです。それさえうまく決まれば、ストーリーは順調に流れていく。寄り道なんて不要だ」
キャラクターにストーリー。
田沼は2つの世界の間に、一線を引く言葉を選んだ。
「僕はね、山井さん。プロフェッショナルの漫画家である六坂ダイを尊敬し、信頼している。『アカバネ』は最高の少年漫画だ。六坂ダイの生み出した阪田兄弟を、ナカノツバサを、北川を……『アカバネ』のキャラたちを、僕は信じている。軽微な逸脱が、起こったことは認めましょう。けれどもうすぐ収まる」
あの世界のすべては六坂ダイ、編集者である自分の手のひらの上だと彼は言う。
「そんな単純な話だったら、良かったのだが」
蝋月の言葉に、田沼の笑声がかぶせられる。
「1コマしか出番のなかった、通行人風情が偉そうに。モブはモブらしく、コマの隅っこで大人しくしていてください」
蝋月は気づいていた。
この饒舌は田沼の混乱の表れなのだ。
しかしこれ以上、実のない雑談を続ける気分ではなかった。
「君の作品論、なかなか面白かった。だが、あいにく時間がない。切るよ、もう」
「怒らないで下さいよ、山井さん。あなたは1000年の時を生きるエルフ、偉大な魔法使いなんでしょう?いまこそ、モブの汚名返上です。そのスーパーパワーで見事、中野翼君を救ってあげてください」
顔も知らぬ青二才に煽られるまでもない。
蝋月はすでに十分足掻いている。
「できるはずですよ。あなたの住む世界は、『アカバネ』は、少年漫画の世界なんですから。正義は勝つ。努力は報われる。夢は叶う。誰もがヒーローになれる。それが少年漫画なんだから!」
しかしそこで田沼の饒舌もそこまでだった。
しばらく沈黙が続く。
そして田沼は言った。
「……知っていますよ。中野翼君は漫画の一部じゃない。現実の人間だ」
つい数週間前まで、田沼の中で作品と現実の境界線は明確だった。
けれど、今は揺らいでいる。
サイン会で田沼と翼は顔を合わせ、ひとこと言葉も交わした。
あの短時間で、心が通じ合ったなんてとても言えない。
けれど、ペコリと頭を下げてプレゼントをくれた、少し頼りなさそうなあの青年……
彼のことを、田沼はしっかりとおぼえていた。
「彼が消えても良いだなんて……僕だって……これっぽっちも思えるわけがない」
お願いです、と田沼は言った。
「彼を現実世界に、戻してやってください」
「約束なんて、とてもできない。わたしもみんなも無力さ。だからあの時、中野司は死んだ」
中野司の名を聞いて、田沼は息をつめた。
どこで間違ってしまったんだろう?と彼は言った。
僕たちは、良い作品をつくりたかっただけなのに、と。
「作者である六坂先生が描き、編集者の僕がそれを承認した……中野司を殺したのは、僕たちなのでしょうか?」
蝋月は長いため息をついた。
「わたしにどう答えろと?」
亡き友を思うたびに、そして兄を喪ったツバサの心情を思うたびに、蝋月の胸は張り裂けそうになる。
悲しみは3年の年を経ても、あせることはなかった。
しかし蝋月は、何も言葉にしなかった。
田沼にそれを伝えたところで、なにが変わるわけでもない。
「彼は死ぬ筈じゃなかったんだ」
田沼は呟いた。それは罪の告白のように響いた。
中野司は、主人公の朱音吾輝人の旅の仲間に加わり、共に勝利を手にするはずだった。
呪われた体と魂は癒され、彼は生まれ変わるはずだった。
彼の背負ったすべての傷と罪は、希望に満ちた明日で塗り替えられるはずだった。
けれど、中野司はすべてを拒んだ。
彼は『アカバネ』という物語を拒んだ。
彼は世界のすべてを、変えたかったのだ。
「中野司は、僕たちの手を振り払って『アカバネ』の外側に向かって跳んだんです。そして世界の狭間に落ちた彼は、粉々に砕けた」
中野司の死が決定的になったその時、田沼と六坂ダイは話し合い決断をした。
「中野司は死んだ。けれど描くのは、彼の敗北じゃない」
「どんな名前を付けたところで、死は死だ」
その蝋月の言葉を、田沼は遮った。
「違う。だから六坂先生は、ナカノツバサを創り出した」
中野司の意思を継ぎ、彼女は生きる。
それが中野司の勝利なのだと田沼は言った。
君は間違っている、と蝋月は言った。
「ナカノツバサは自由だ。何も決められていない世界で、彼女の未来は彼女自身が選ぶ」
「……そうですか」
また長く沈黙が続いた。
受話器の向こうの彼は、泣いているのかもしれないと、蝋月は思った。
「約束してください。『アカバネ』は僕たちの作品でしかない。僕の抱くこの幻想を、ぜんぶ裏切ってみせてください」
現実世界で、田沼はナカノツバサと出会った。
そして彼女もまた、田沼の現実になったのだ。
田沼は彼女の大切なものをこれ以上、奪いたくなかった。
「直接会って、結果を伝えられればいいな。わたしも壁を超えて、君のいる世界をこの目で見てみたい」
「お待ちしていますよ」
「コーヒーという飲み物を、御馳走してくれるかい?」
「ええ奢ります。何百杯でも」
そして今度こそ、蝋月は通話を終えた。
「終わったよ」
蝋月が隣の部屋に下がっていた某を呼びに行った。
「ん」
某は蝋月に何も尋ねなかった。
某は蝋月のことなど忘れていたかのように、散らかり放題の部屋で読書に没頭する振りをしてくれていた。
蝋月は、床に積み重ねられた書物の山をひっくり返し、便箋を引っぱりだした。
転がっていたペンも拝借する。
何通か手紙を書かなければならない。
田沼との会話で、絶対的な解決策を思いついた訳ではない。
けれど気づかされた。
知らず知らずのうちに蝋月も、この『アカバネ』世界の枠を決めつけ、自分の居場所を狭めていたのかもしれない。
今からでは遅いかもしれない。
けれどあと少し、境界線を外側に押し広げてみよう。
「なっちゃん、最初に謝っておく」
「はいな?」
「どっちに転んでも、君にかなりの迷惑をかけることになると思う」




