71. 無口な彼
酒の酔いを100倍も酷くした、酩酊感。
脳ミソに指をつっこまれて、掻きまわされているような最悪の感覚。
倒れなかったのは、意地でしかない。
血が滲むほど、自分の手の甲を噛む。
元通りに視界が開けるまでには、さらにしばらくの時間が必要だった。
リトは北川に尋ねた。
「どのくらい俺は飛んでいた?」
「5秒。たった5秒だ」
いまだ地面に倒れたままの、北川が答えた。
「俺が力を振り絞って、見習いと竜の手まで借りて、奥の手使って、もぎ取れたのはたった5秒……さすがだよ、あんたは」
「それだけありゃ、十分だろう。なぜ、俺を撃たなかった?」
「もう力なんて、一滴も残ってない。弾切れさ」
北川の目は、固く閉じられたままだった。
彼のまぶたの内側にはまだ、リトに向かって放った力の残滓がある。
北川が、竜の背に描いたのは鏡文字だ。
自分の瞳にそれを映すことで、その術を完成させたのだ。
「降参。俺の負けだ」
リトが鞭を収めた。
「何故だ?俺を殺して、竜もナカノツバサも始末して、それでもまだお釣りがくるくらい力余ってんだろ」
「いいや。これ以上やっても、お前さんには勝てる気がしない」
「お高いプライドだな……勝手にしてくれ」
北川は、グッタリと力を抜いた。
「それにもう、脅威は去った」
そう言ってリトは、北川の胸元に目をやった。
紛い物の無位の双眸は砕け、すでにその輝きを失っていた。
戦いの終わりを確認し、竜はようやく地面へと降り立った。
そしてツバサを背から下ろすと、悠然と飛び去っていった。
砦の部屋に、戻るのだろう。
「北川さんっ……!北川さんっっ!!」
転げんばかりの猛スピードで走ってくるツバサを、リトはホールドアップの姿勢で迎えた。
しかしツバサの目には、リトなどまるで入っていない。
「きたがわさんっ……しっかりして!目を、目を開けてくださいっ……お願いです!」
北川の元へと駆け寄ったツバサは、彼を助け起こそうと奮闘する。
「んっ!ううっ……!!」
しかし小柄な彼女が、長身の北川を支え切れるわけもない。
あえなく二人揃って、ぬかるみの中にベシャッと崩れ落ちた。
「あーあーあー。ったく、見てらんねえよ」
リトが手を差し伸べた。
しかしキッと、ツバサに睨みつけられる。
「待っていなさい。次はわたしが相手になります!これ以上、北川さんを傷つけさせはしません」
「だーかーらー、俺の負けってことになったんだよ。もう」
やれやれ、とリトはため息をついた。
「北川さん、安心してください……。わたしが……こんな傷なんて、いますぐに、すぐに。治しますから……」
ツバサが北川の胸に手を当てる。
それは、とても小さな手だった。
ツバサは、治癒のスペルを必死で唱えた。
不器用に紡がれたスペルは、北川の身によく染みた。
『アカバネ』という異世界で生まれた本を開いて、北川は恋に落ちた。
それから一日また一日と、想いは強くなる一方だ。
彼女とひとつ言葉を交わすたびに、一度視線が合うたびに好きになっていく。
そして、いま彼女が北川に触れている。
胸が締め付けられる。
涙がこぼれそうになった。
「ナカノ君、ありがとう。痛みが消えた」
どうにか、うまく微笑むことができた。
北川は、ようやく目を開けた。
手を伸ばして、涙で濡れた彼女の頬に軽く触れる。
結局、格好よいところはひとつも見せられなかった。
「泣くな。もう大丈夫だから」
「……はい」
こっくりとツバサが頷いた。
「……」
それはハタから見ても、なんともムズ痒い光景だったのだろう。
リトは、大儀そうに自分の右足をあげた。
そして、北川の尻を軽く蹴り飛ばす。
「痛てえっ」
思わず、北川は飛び上がった。
「ほうら、立てんじゃねえか。ヤニ下がってんじゃねえ、あほんだら」
そうだ、寝ている場合ではない。
「リトさん、ひとつお願いがあるんだが」
「敗者に命令できるのは、勝者の権利だ。言えよ。何でも飲むさ」
「中野翼を探しにく。一緒に来て欲しい」
「……なぜだ?」
北川の意外な要求。
リトはその意図を、計りかねたようだ。
「……!」
ツバサも北川の言葉に驚き、身を固くした。
北川はツバサに理由を説明する。
「彼ら阪田兄弟がこの街へと戻って来たのは、中野司からの手紙を受け取ったから……だそうだ」
「そうですか……兄の名で」
それでツバサは理解した。
阪田兄弟にも、結末を見届けて欲しい。
手紙を出したその誰かは、そう考えたのだろう。
「わたしからもお願いします」
ツバサはリトに向きなおり、頭を下げた。
「今回の一件、訳あって事情をお話しすることはできません。ご自分で見て、知っていただくしかないんです」
「彼に会えばすべてが分かる……か。だがどうやって中野翼を探す?」
リトの言う通り、北川たちは翼を見失っていた。
先ほどの戦いの最中、異様な魔力を遠くに感じた。
あれは、中野翼のものだったのだろうか?
しかしいつの間にか、気配はかき消えてしまっていた。
ツバサは携帯電話を取り出し、通信を試みる。
しかし、翼には繋がらなない。
救いの手は、意外な方向からやって来た。
あまりにも小さな気配だったので、気付くのが遅れた。
ぽこっ。
何かがツバサの肩に当たった。
いや止まった。
「マルホシドリ……どうしたの?こんなところに」
お逃げ、捕まえたりしないから、とツバサが優しく指で促す。
しかし、その小鳥は濡れた羽を震わせながらも、強情にツバサの肩から動こうとしない。
まるで何かを訴えるかのように、丸っこい瞳でツバサを見上げる。
それを見た北川が、驚きの声をあげる。
そのマルホシドリの頭の毛、その星の微妙な色合いと形に、見覚えがあったのだ。
「まさかお前、ダイちゃんか!?」
見覚えがあるのも当然。
蝋月の留守中、この鳥の世話を翼と交代で焼いていたのは彼なのだ。
名前を呼ばれると、マルホシドリは元気よく「ぴー」と返事をした。
「お父さんの飼っている鳥さん?まさかこんな嵐の中、屋敷から飛んできたなんて」
もどかしい。というようにダイちゃんは、ツバサのシャツの肩口を短いくちばしで引っぱった。
何かをツバサに伝えたがっていた。
まさか、とツバサは問いかける。
「まさか君、翼さんの居場所を知ってるの……?」
「ピッ」とダイちゃんが、また返事をする。
そんな都合のいい話があるわけない。
けれど、いまは藁にでもすがりたい。
そして、意外なことをリトが言い出した。
「すべて空を飛ぶものは、竜の眷属だというぜ。この鳥を呼んだのはきっと、さっきの竜だ。嬢ちゃんの助けになるようにってな」
***
中野翼には、ひとり特別な友人がいた。
いや、彼を友人と呼んでいいのだろうか?
しかしふたりの関係を表す、適当な言葉も見つからない。
無口なやつだった。
自分の名前すら、翼に教えてくれなかった。
不便だからとあだ名をつけようとしたら、それすら拒まれた。
名前を持たない彼。
姿の見えない彼。
翼しかその存在を知らない彼の住処は、翼の心の中だった。
いつかどこかで、聞きかじったことがある。
幼児が自分にしか見えない友達を、想像力でこしらえる。
大人になれば、消えてしまう幻影の友達だ。
世間に、よくある事例らしい。
けれども翼の身長がいくら伸びても、彼は消えたりしなかった。
物心がつく前から、きょうにいたるまでずっと。
平凡な翼の20年を、彼は一番間近で見守り続けていた。
平凡な人生にだって、多少の凹凸はある。
しかし翼が壁にぶつかった時も、選択に迷った時も、無口な同居人は助言のひとつもしてくれなかった。
けれど彼は、翼の味方だった。
誰かがそばにいてくれる。
それだけで、人は強くなれる。
彼の眼差しが支えてくれたから、翼はまっすぐに歩くことができた。
必要な時に必要な分だけ、勇気を絞り出すことができた。
彼がいなければ、翼の人生はいまより少し、くすんだものになっていたはずだ。
ツバサと出会ってからの日々も、翼の中にいる彼は頑なに押し黙ったままだった。
けれど、長い付き合いだ。
翼には、いまの彼の気持ちを分かっていた。
「よう」
自分の胸をポンと軽く叩き、翼は呼びかける。
返事をしない彼に話しかけるのは、久しぶりのことだ。
「なぜ、きみは泣いているんだ?」
そしてやっと知ることのできた、彼の名前を口にした。
「答えてくれよ……中野司」




