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6. 翼の後輩

 その晩は一睡もできなかった。

 日が高くなる時間を待って、中野翼は外へと飛び出した。

 行く先は電車で3駅のところにある大型書店だ。

 ここなら間違いなく、お目当てのものが揃っているはずだ。


 書店に入る前に、翼はATMに立ち寄った。

 生活費とは別に何かあった時の為に、より分けてあったなけなしのヘソクリ。それを一部引き出す。

 今こそ、その「なにかあった時」で間違いない。

 

 (本体419円+税)×24。

 下ろした金で購入したのは、コミック『アカバネ』全巻だ。

 一晩経っても、ナカノツバサと過ごした時間は夢と霞んでなんかくれやしない。

 紙袋二つにみっちり詰まったコミックス。

 ずしりと両手が重かったが、このままひとりのアパートに帰る気にはなれなかった。


 本日は土曜日。

 大学は休みだ。他の予定も入っていない。

 翼の足は自然と、アルバイト先の喫茶店へと向かっていた。

 ただ今の時刻は午前11時前。

 モーニングサービスのピークも過ぎて、最大の山場であるランチまでには少し時間がある。

 フロアにいるマスターに一声かけてから、翼は従業員休憩室へと引っ込んだ。

 

 客を迎える表とは大違いだ。

 そこはパイプ椅子と長テーブル、それにロッカーがあるだけの狭い空間だ。

 男女別の仕切りがあるわけでもないので、着替えの際はかわりばんこに使うしかない。

 パイプ椅子に腰かけて、翼は買ってきたばかりのコミックスを長テーブルに積み上げた。

 そして一心不乱に、それを読み始める。

 間もなく、バイトの後輩が休憩室に顔を見せた。


「ちっす!中野先輩、なにしに来たの?」


 壁に貼られた従業員シフト表を見ながら、後輩は当然の質問を発した。

 翼の欄には、今日はバッチリ「休」の一文字が書いてある。


「マンガ読みに来た。ここならコーヒーも飲めるし」


 コーヒー代は給与からの天引きで、従業員割引も効く。


「休みの日に、他に行くとこないんですか?」


 後輩に呆れられた。


「あ、コーヒー飲むなら自分で持ってきてね」


 そう言い残すと、後輩は勤務に戻って行った。

 翼はコミックスを置くと、言われた通り裏からキッチンへと回った。

 マスターに頼んでポットにたっぷり、ブレンドを淹れて貰う。

 翼はロッカーから、自分専用のマグカップを取りだした。

「田島精肉店」というロゴと、何ともやる気のなさそうな牛の絵が描いてあるマグカップだ。

 

 コーヒーを飲みながら、3時間かけて翼は『アカバネ』を12巻まで読み終えた。

 12巻時点で、ナカノツバサの出番はまだない。

 先が気になる。急いでページをめくりたい。

 しかし翼はその衝動を抑えて、ゆっくりと読み進めていった。

 何ひとつ見逃すまいと目を凝らして。

 こんなに意識を集中させて、マンガを読むのは生れてはじめてだ。

 休憩時間に入った後輩が、また休憩室へやってきた。


「よっ、おつかれ」

「あれ先輩、まだいたの?」


 徹夜明けの翼の頭はそろそろ重い。

 ここいらでいったん休憩だ。


「先輩もまかない食べていく?」

「うん、頼むわ」


 翼が頷くと、後輩は自分の分と合わせて2皿昼食を運んできてくれた。

 翼のためにおかわりのコーヒーも淹れて来てくれた。

 本日のまかないは、残り物を集めて乗せたトーストサンドだ。

 ひと切れはスクランブルエッグにツナにポテトサラダのミックス。もうひと切は、コーヒーゼリーと生クリームのトッピングだ。客に出せるような見た目ではないが、これがめっぽううまいのだ。


「いただきます」


 ふたりは同じテーブルで食事を始めた。


                 ***


 後輩の名前は、波戸夕(はと・ゆう)。

 彼女はこの店「波戸珈琲店」唯一の、女子高校生従業員である。

 その名字が示す通り、彼女はこの店の関係者。

 詳しくいえば、マスターの姪っ子だ。

 チャームポイントは、薄いピンクのメタルフレームのメガネ。

 そして彼女が動くたびに合わせて揺れる、高い位置で結いあげられたポニーテールだ。


 波戸珈琲店の制服は、かっちりとしたオーソドックスな喫茶店スタイル。

 男女共に、白いブラウスと黒の蝶ネクタイに腰巻エプロン。

 下は男が黒のスラックス、女が黒のタイトスカート。

 制服に身を包んだ夕は、16歳という実年齢より少し大人っぽく見える。


「客入りはどう?」

「いつもどおりの土曜日って感じ。でも冷たいのがよく出てる。まだ4月だっていうのに暑っちいもんね」


 夕はタイをゆるめ、ブラウスのボタンをひとつ外し、だらっとテーブルに頬杖をつく。

 食べかけのサンドイッチは口にくわえたままだ。大変お行儀が悪い。

 そして無遠慮に黒いストッキングに包まれている足を組んだ。

 向かい側に座っていた翼は慌てて目をそらす。


 正式なバイト歴は、翼に一日の長がある。しかし夕の方がよほど、この店との付き合いが長い。

「中野先輩」と呼ばれているが、まったくもって敬われてはいない。

 夕の翼に対する態度は、良く言えばラフ。悪く言えばゾンザイなのだ。


「なんかお疲れだね、夕。今日は何時まで?」


 翼は客前以外では、波戸夕のことを「夕」と呼び捨てにする。

「波戸」と名字で呼べばマスターとかぶる。

「夕さん」や「夕ちゃん」というのも、何かいやらしい気がする。 

 どうも加減が難しいのだ。


「17時まで。で、わたしが汗水たらして一生懸命働いている間、中野先輩はずっとそれ読んでたんだ。ここはマンガ喫茶じゃないっつーの」

「うん、やっと半分まで読み終えた」


 食べたら眠気が増してきた。あくびをかみ殺して翼は答えた。


「半分か。阪田兄弟が出てきたところあたり?」

「う、うん。ちょうどそのあたり」


 具体的なキャラクターの名前が飛び出してきたことに翼は驚いた。

 夕はずいぶんとこの漫画を読みこんでいるらしい。


「そっから、また盛り上がってくるんだ。ネタバレしちゃうと、サクラちゃんがめちゃカッコイイの」


 夕は弾んだ声を出す。

 翼に『アカバネ』存在を教えたのは、この夕だ。

 自分の好きなマンガの、愛読仲間ができたことが嬉しいらしい。

 しかし昨晩の自分の身に起こったことを、夕にそのまま話すわけにはいかない。

 頭がおかしいと思われるのがオチだ。

 代わりにといってはなんだが、翼は夕にこんな質問をしてみた。


「もしマンガの登場人物に会えるとしたら、夕は誰に会ってみたい?」

「なにそれ?心理テストとか、そういうやつ?」

「ううん、聞いてみたかっただけ」

「ドラえもん」


 夕の答えに迷いはない。


「ドラえもんに何を出してもらいたいの?」

「バイバイン」


 そう言った夕の視線の先には、あとほんの一口になってしまったトーストサンドがあった。

 まだ食べたりないらしい。


「二枚目の男キャラに会ってみたいとは思わないの?たとえば、さっき言ってたサクラちゃん――二条桜木とかにさ」


 二条桜木(にじょう・さくらぎ)は『アカバネ』のメインキャラ。

「サクラちゃん」とは、劇中でも使われている彼の愛称だ。

 翼がこの休憩室で初めて目にした『アカバネ』の、その回にも彼は登場していた。

 ツバサと並び立っていた、黒髪の美剣士が二条桜木だ。


「まったく思わないよ!だってサクラちゃんに会えても、何話していいかさっぱり分かんないし」

 

 それに、と夕は続けて言った。


「あんな人が現実に出てきたら、困るっしょ?キャラ本人も、現実世界側も」

「なんで困るのさ?強くて、カッコいい正義の味方だぜ」

「ちっ、ちっ、ちっ、分かってないな、先輩は」


 夕が人差し指を振ってみせる。


「マンガのキャラ……ひいてはすべての二次元界の住民とわたしたちの間には、決して越えられない壁があるの。触れられないほど遠くにいるから、彼らは輝いて見えるんだよ」


 なるほど、それは一理あるかも、と翼は思った。

 登場人物は、作品世界を構成する部品のひとつだ。

 そのバックグラウンドも含めて、彼らは彼ら足りえる。

 部品である彼らが所属する世界を離れれば、その魅力も能力も十分に発揮できなくなってしまう。

 夕は言いたいのは、そういうことだろう。


「二次元キャラの上には、わたしたちとは別の太陽が輝いていて、彼らはわたしたちとは別の空気を吸っているの。深海魚と同じ。地上に無理やり引っぱってきたら、破裂しちゃうんだよ。ボンって」


 夕はそう言うけれど、翼の出会ったナカノツバサはこの世界にあっても、少しのくすみも見せなかった。平板な紙面にいた時よりも、彼女はずっと鮮やかに見えた。


「夕、バイト終わったあとヒマ?」


 これ以上ここに座っていたら、まもなく眠り込んでしまいそうだ。

 けれどまだ翼は眠りたくなかった。


「まかない食っただけで帰るのも悪いし、腹ごなしに少し手伝っていくよ。だから仕事あがったあと、ちょっと付き合ってくれないかな?」

「え?なに急に。どうしたの?」


 夕が驚くのも無理はない。

 ふたりの付き合いはこの店限定だ。連れだって遊びに行ったことなど、これまでなかった。


「カラオケに行きたくなった。なんだか無性に歌いだしたい気持ちだ」


 それは嘘だ。どちらかといえば、翼はカラオケが苦手だった。

 けれどいまは何も考えなくてすむように、うるさい音のなっている場所に行きたかった。


「なんでわたしが先輩と?一人で行けば?」

「寂しいじゃん」

「……中野先輩は、友達いない人なんですか?」

「おごるから」

「もう、仕方ないな。かわいそうだから付き合ってあげますよ!その前に、言ったからには本当に店手伝ってくださいよ。さぁ先輩、さっさと着替えてください」


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