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7.その前夜

 軽いめまいに似た感覚から覚めると、ツバサの目の前の景色は一変していた。

 翼の姿はない。

 ナポリタンという料理の匂いも消えていた。


 ここは元いた世界、学生寮の自分の部屋だ。

 部屋の様子は、何ひとつ変わっていないのに。

 シンと冷えた空気が身にしみる。

 世界の果てより遠い場所に行って、戻ってきたはずなのに。

 時刻は出かける前と変わらない夕暮れ時だ。


 風の冷たいひと気のない通り、昇り始めた月の下を走って走って。

 ツバサは街の外れにひっそりとたたずむ、館へと駆け込んだ。

 ノックして玄関から入るなんて、ややこしい手順は省略して。

 目当ての人物がいるとあたりをつけ、勝手口からズカズカ上がりこむ。

 予想通り、その人は台所で立ち働いていた。


「国本さんっ!」


 ツバサは真っ直ぐに、彼女に飛びついた。

 そして、その豊かな胸に顔をうずめる。


「あらあら、また学校を抜け出してきたんですか?今回の引っ越しで実家が近くなったとはいえ、こう頻繁に里帰りされても困ります」


 そう言いながらも、彼女はしがみつくツバサの背中をやさしく撫ぜた。

 フリルのついたエプロンドレス、頭には白のヘッドドレス。

 そのツバサが国本さんと呼んだ女性は、メイドだった。

 年齢は20代前半といったところだろうか。


「お父さんは?」

「まだお戻りになられません」

「そっか……残念。すぐに伝えたかったのに」


 一瞬、シュンとしたツバサだったがすぐに気を取り直す。


「聞いて!国本さん。わたしいま翼さんに会ってきた。そう、もうひとりの中野翼に……わたしの運命の人に!本当に向こう側の世界はあったの。ぜんぶ触って確かめてきた」

「はい、それは良かったですね」


 国本女史の簡単な返事に、ツバサは不満気に口をとがらせた。

 頬を上気させながら、ツバサは国本女史に一生懸命先ほど体験したことを伝えようとする。


「翼さんはすごく優しくて、とっても素敵な人だった。そしてちょっぴり不思議な人かも。はじめて会ったわたしに、いろんなことを教えてくれて。そしてね……えへへ……君に会えて嬉しいって、そう言ってくれた。それからね……」


 興奮に説明が追いつかない。


「お父さんの心配していたことなんて全然なかった。翼さんは、翼さん。他の誰でもない」


 ツバサの弾んだ声。

 対照的に国本女史の表情はどこか晴れないものだ。


「さて、立ち話もなんですから。座ってください。簡単なものならすぐにできますよ。お腹減っているでしょう?」


 言われて初めて、ツバサはいま自分が空腹であるということに気付く。

 向こうの世界で、翼と一緒に食事をしたばかりだというのに。

 急に湧き出してきた不安を抑え込むため、ツバサは翼から譲り受けた携帯電話をブレザーのポケットから取り出した。

 この小さな画面の向こう側には、翼のいる世界がある。

 その糸は見えなくても、確かにふたりは繋がっている。


                 ***



 ふと気付くと、右手をじっと見てしまう。

 しかしツバサに教えられた、魔法を試してみる勇気は出ない。


 翼の日記に、ツバサからのメッセージは届かなかった。

 しかし先日の出来事は翼の見た幻覚――そう片付けることは、できなかった。

 翼がきちんと『アカバネ』を読んだのは、ツバサと出会った後のことだ。

 あの夜ツバサは彼女の住む世界の話、そして彼女自身の話を教えてくれた。

 それらが『アカバネ』に描かれていることと、ピタリと重なっていた。

 

 何事も起こらないまま、2週間が過ぎた。

 自宅、アルバイト先、学校。

 3つの地点を行き来するだけの、変わらない日々を翼は過ごしていた。



 今日は、何かとついていない一日だった。

 電車の遅延で授業に遅刻。

 授業が終わり、外に出たとたんに雨が降り出す。そして案の定傘を持っていない。

 バイト先では、グラスを3つも割ってしまった。

 バイト帰りのコンビニのレジ前、鞄の底までひっくり返した揚句、ガス料金の振り込み用紙を自宅に忘れてきたことに気がついた。

 そして残りあとひとつのアメリカンドッグを、直前の客に買われてしまった。

 

 翼は酒に弱い。

 でもこの日ばかりは、すこし飲みたくなった。

 売り場に引き返し、発泡酒を二本かごに入れる。

 こんなものでも貧乏学生にとっては、思い切った贅沢だ。

 ロング缶一本で十分だった。

 すっかりほろ酔い気分だ。


 ひとりの食事を終え、食器も洗って、日記も書いた。

 長い一日だった。あとは眠るだけ。

 なのに翼は余計なことをひとつ、思いついてしまった。

 そして思いついただけでなく、実際試してしまった。

 翼はちゃぶ台に積み重ねていた『アカバネ』の山から、適当な巻を1冊抜いた。

 そしてそれを床に置く。

 

 まずは軽くつま先で、その『アカバネ』をチョンチョンと小突いた。

 次に片足立ちで『アカバネ』の上に立ってみる。

 漫画家、編集、流通、本屋の店員さん……みんなごめん、と心の中で謝った。

 知っている。本を足蹴にすることは悪いことだ。

 さらには、このマンガの中にいるツバサにだって申し訳ない。


 これは酔った勢いと、できごころの仕業だ。

 マンガの中に入り込めないかなと。

 つい思ってしまったのだ。

 翼は小さなコミックの上に、両足でつま先立ちになった。しまいにはジャンプだってした。

 そしてバランスを崩して尻もちをついた。


「……馬鹿馬鹿しい」


 これ以上ドタバタすれば、下の住民から苦情がくる。

 ため息をひとつついて、翼は本を元の場所に戻した。

 おとなしく明りを消してベッドに入る。

 そして目覚めたときには、もう飛んでいた。


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