8.異世界でおはよう
久しぶりに口にしたアルコールのおかげだろう。
夢も見ずにぐっすり眠った。
けだるいが充実した感覚。
しかし目覚めつつある意識の中、小さな違和感がいくつか湧いてきた。
いつもと違う枕の感触。
いつもと違う空気の匂い。
それに何だか肌寒い。
あれ?いま何時だ?
今日は一限目に、絶対落とせない授業が入っている。
もう起きなくちゃ……翼は目を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、見覚えのない天井だった。
一気に目が覚めた。翼はガバッと飛び起きた。
「うわっ」とか「げっ」とか、たぶん変な声が漏れたはずだ。
翼が寝ていたのは見知らぬ部屋の、見知らぬベッドの上だった。
「おはようございます」
翼の寝転ぶベッドのすぐ脇、窓際の机に向かっていた人物が振り向いて言った。
銀色の髪、紺の制服――ナカノツバサだった。
「よくおやすみでしたね」
「……おはよう」
呆然自失のていで、翼は挨拶を返した。
起き上がってまた気がついた。
眠る時に着ていたのはパジャマ代わりの、スウェット上下だったはずだ。
しかし翼の服装は、ジーンズ、クマの絵がプリントされた長袖Tシャツ、黄色のパーカーいうものに代わっていた。
ツバサが自宅やってきた日に、着ていたのとそっくり同じだ。
あの日以来、一度もこのTシャツには袖を通していなかったはずなのに。
「ツバサさんが僕を呼んでくれたの?」
「ご自分でいらしたんです。おぼえていないんですか?」
「やっぱりここは『アカバネ』の中か……」
「はい、ここはわたしの部屋です」
頭を抱えて、翼は呻いた。
まさか昨日試した、馬鹿げた真似の効果が本当に現れるなんて。
このツバサの部屋は、翼の自宅よりさらに手狭だった。
しかし物が多くない分、スッキリと見える。
机、椅子、ベッド、衣服を収納する行李がふたつ。
最低限の家具と生活用品。
病室を連想させてしまうような簡素さだ。
女の子の暮らす場所だというのに、飾りの一つもない。
ツバサの話によると翼は昨夜0時過ぎに突然、この部屋に出現したらしい。
その時、ツバサは机に向かって書きものをしていた。
気配を感じ振り向いたら、ベッドで翼が寝息を立てていたというわけだ。
「おかげで、わたしは床で寝ることになりました」
「ごめん。本当ごめん……て、もしかして、ここ女子寮!?」
翼は慌てて声をひそめた。
彼女は兵学校の寄宿舎に暮らす女学生だということを、翼は『アカバネ』を読んで知ったのだ。
「誰かが来る心配はありません。この建物には、いまわたし達しかいませんから」
ツバサの言うとおり、周囲からは物音ひとつ聞こえてこない。
窓から見える日はすでに高い。
寮生たちはすでに、授業を受けるため校舎に移動したんだろうと翼は推測した。
「いま何時?」
「どうぞ」
ツバサは制服の胸のポケットから、例の携帯電話を取り出す。
そして表示されている時刻を見せてくれた。
AM10時。
午前1コマ目の必修科目。完全にアウトだ。
そこで翼はハタと気がついた。
授業に出られない。いや、それだけでは終わらない。
帰り道が分からない。
「あーうー、来たばっかりでなんだけど、いちど元の世界に戻りたい」
救いを求めてツバサを見つめたが、求めていた答えは返ってこなかった。
「そう言われましても。前にも言った通り、帰る方法はわたしにも分からないんです」
困ったことになった。
向こうの世界と、連絡をつける方法はない。
もう2、3日もすれば、立派な蒸発者のでき上がりだ。
落ち込む翼をツバサが慰めてくれた。
「きっと自然に元の場所に帰れます。わたしの時みたいに」
「……」
そんなふわっとした推測を言われても……。
しかし泣いても何も始まらない。
「この世界にいる間のことは、お任せください。今度はわたしが翼さんのお力になれるよう、全力で頑張ります」
***
あれから翼は繰り返し『アカバネ』を読んだ。
読者の翼が、少年マンガ業界の内情を知るわけもない。
しかしその現場が、非常にシビアなものであることは想像がつく。
週刊連載という、タイトなスケジュール。
毎週実施されるアンケートで読者人気を伺い、単行本の売り上げも睨みつつ……
作者は絶えずプレッシャーという強烈な向かい風を受けながら、物語の舵取りを行っていく。
時には、多少の進路変更も余儀なくされながら。
かくして『アカバネ』は5年という連載期間を走り抜け、完結というゴールのテープを切った。
それは決して、平たんな道のりではなかった。
難所をひとつ潜り抜けるたび、『アカバネ』という物語には傷やほころびが生まれた。
話が進むにつれて忘れ去られた、当初の設定。
思わせぶりに登場したのに、たいした見せ場もないままフェードアウトしていった人物。
回収されることがなかった伏線。
物語がエンディングを迎えた今となっては、つつくだけ野暮だ。
そんなもの最初からなかった。そういうことにするのが正解なんだろう。
けれど作者も読者も忘れてしまっても、一度登場した不要物たちは『アカバネ』の世界から消えてなくなったりはしない。そこに留まり続ける。
そして、生まれた傷やほころびは、小さなものだけではない。
面白ければそれでいい。
それが刹那的な娯楽である、少年マンガの至上命題だ。
矛盾上等。物語の整合性なんて二の次だ。
ここらで一丁、山場が欲しかったから?
特定のキャラの見せ場を作りたかったから?
それとも作者が、昨日見た映画に影響されちゃったから?
そんな動機で人の生死や、重要な戦いの勝敗が決められたのかもしれない。
連載という幕が下りても、登場人物たちの人生は続いていく。
過去は変えることができない。
その点は『アカバネ』世界も、現実世界と同じだ。
ナカノツバサにもまた一つ、大きな傷を負っていた。
彼女には、中野司(なかの・つかさ)という兄がいた。
彼女はそのただ一人の兄を『アカバネ』という物語の中で亡くしていた。




