20. 深酒/朝湯
「あら?お酒を召し上がっていたんですね」
酔い覚ましに水を一杯。
台所に立ち寄ったところで、北川は声をかけられた。
「ああ、驚いた。あなたでしたか」
声の主は国本女史だ。
「グラスがふたつ……中野様とご一緒だったんですか。声をかけていただければ、簡単なおつまみくらいお持ちしましたのに」
国本女史が甕から汲んだ水を、グラスに満たしてくれた。
北川はそれを一気に飲み干し、尋ねる。
「蝋月さんは?」
「もうお休みになられました」
「まだ宵の口だってのに。そういうところは並みのガキんちょと変わらないんだな」
国本女史はジロッと北川を睨んだ。
「場はいまだ不安定。中野様のいらした”あちら”との繋がりを保つため、蝋月様は力を注いでいらっしゃるんです。お疲れなのは当然ですわ」
「あなたの力は、そっち向きじゃないからな。でも、明日から俺が脇につく。少しは蝋月さんの負担も減るだろう」
「頼もしい限りです」
けれど、と国本女史は付け加えることを忘れなかった。
「せっかちさんは困ります。これから嫌というほど、中野様とは顔を合わせることになるのに。くれぐれも慎重にお願いしますよ、北川君」
「一杯付き合ってもらっただけですよ。和やかに話も弾んでね……大丈夫ですよ、重要なことは何も漏らしていません」
「で、いかがでしたか?彼の印象は?」
「読めません」
と、北川はため息をもらす。
「のほほんと構えてはいるが、どこまで本当なんだか」
「あの方には何かを企む余裕なんて、無いんじゃないんですか?異界からやってきて、まだ一日と経っていないんですから」
「腑に落ちないのはそこです。その割には妙に落ちついてるじゃないですか。初対面の、この悪役の俺にだってずいぶんと馴れ馴れしい」
「中野様が安心していられるのは、ツバサお嬢様がいるからですよ。あなたを受け入れたことだって、お嬢様あってのことでしょう」
「でもナカノ君が何を思っているのか、彼は知らない」
そして北川は、また酒瓶の栓をゆるめた。
新しいグラスをもうひとつ戸棚から出し、国本女史の前に置く。
勧められた酒に、彼女は素直に口をつけた。
「私は彼に好感を覚えています」
「なんでまた?」
「私の作ったごはんを、とってもおいしそうに食べてくれたんですもの」
その答えを聞いて、やってられないと天井を仰いだ北川に、更に国本女史が追い打ちをかける。
「素直じゃないですねえ。君も昔は可愛かったのに。パッチリお目々に長いまつげ、金色のフワフワした髪の毛……まるでお人形さんみたいだった。司君に手を引かれてやってきた小さな君を、昨日のことのように思い出します。それがこんなにデッカく、ゴツく、生意気に育っちゃって」
「親戚のオバちゃんみたいなこと言うの、やめてください!何年前の話ですか!?」
「でも大人になった君とお酒が飲めるのは、とても嬉しい。私も今日は仕事じまいにしておきましょう。まったく、このお屋敷の無駄な広さときたら、掃いても掃いてもきりがないんですもの!あ、気が利きませんでしたね、何かつまめるものを出します」
愚痴をこぼしながらも手際よく、彼女はたちまち数品の酒の肴を作り上げた。
ふたりは台所のテーブルに並んでついた。
赤く燃えるストーブの火が心地よい。
あの白々しい広間よりも、よほど落ち着く場所だった。
「変わったのは俺じゃない。あなたの方でしょう、国本さん……いまはこの名前でお呼びした方がいいんですね?」
「はい、国本ワルツです。この名は、蝋月様とツバサお嬢様が考えてくれたんです。かなり気に入っているんですけど」
「残念ながら似合っていませんよ、その名前。髪も染めたんですね。綺麗な色だったのに。ワザとらしい口調も、お仕着せもそうだ。全部、蝋月さんの意向ですか?あなたが雇われのメイドとは!悪い冗談にしか思えない」
「こちらからお願いしたことです。少し静かな時間が欲しくなった私に、蝋月様はこの役目を与えてくれました。私がお嬢様のそばにいることができるのは、あの方のお陰です」
中野司の表向きの死から3年。
それから、彼女がどんな日々を過ごしていたのか北川は知らない。
けれど根の部分は、変わっていないようだった。
「俺はまだ蝋月さんのことを、信頼できるほどよく知らない。でも、あなたのことは少し買ってるんだ」
「はい、この顔に免じてお願いします。力を貸してください。あの甘え下手なお嬢様が、めずらしくお願いしてくれたことなんですもの。どうしても叶えてあげたいんです」
***
朝食の席に現れた北川の、目は赤く顔はむくんでいた。
「酒くさっ。あれから、ひとりで飲んでいたんですか?」
「……いろいろあったんだよ、いろいろな」
翼となんか口をきくのも億劫だと言わんばかりだ。
北川はひどい二日酔いに罹患しているらしい。
「はい、お茶をどうぞ。北川さんの分は、とびっきり苦く淹れておきましたから。これを飲んでシャキッとしてください」
国本女史はきょうも白いエプロン姿で、キビキビと立ち働いている。
このオンボロ屋敷の掃除に、ふたりの給仕に孤軍奮闘、獅子奮迅の活躍だ。
「うっ……向こう向いて食ってくれ。食い物の匂いだけで吐きそうだ」
元気に朝食をパクつく翼に北川が訴える。
そして蝋月はこの席に姿を見せなかった。
何でも街中に出る用事ができたらしい。
「”なんでわたしが足を運ばにゃいかんのだ“ってプリプリ怒っておいででした。あの分だとすぐに戻ってこられると思いますが」
と国本女史が説明してくれた。
そしてツバサも屋敷に戻ってはこなかった。
「急用が入った」と翼の端末に今朝メールがきた。
詳しい理由は書かれていない。
詳細が書けないということは、軍の任務に関わることなのだろう。
「心配するな。この街のどこかで戦闘行為があれば、巻き起こる風でそれと分かる。ナカノ君はつまらない下働きに借りだされただけだろう」
翼は北川の言葉に頷いたものの、やはりツバサのことが気にかかる。本当に危険な仕事でなければいいのだが。
うかない顔の翼に、国本女史が声をかけた。
「中野様、朝食が終わったら、さっぱりとお体を流してきてはどうですか?お湯は沸かしてありますから」
***
アカバネの世界に来て丸一日が過ぎた。
足の付いた陶器のバスタブ。
たっぷりとはられた湯に肩まで浸かりながら、翼はこの24時間を振り返ってみた。
エルフ、馬車、剣を帯びた兵士たち……そんなファンタジーそのものの事象たち。
しかしその一方でこの世界には、ファンタジーの文脈からはみ出したものも存在している。
それは蝋月の組み立てた、あのパソコンだけじゃない。
たとえば、このひねれば温かいお湯が出る蛇口。
そして国本女史が用意してくれた、替えのズボンに付いている金属製のジッパーのことだ。
シビアな中世騎士物語には、ぜったい登場しないそれらオーパーツたち。
この大らかさが、いかにも「少年マンガ」的だと翼は思う。
この『アカバネ』世界の技術は決して、翼のいた現実世界に劣るものではない。
ただ、技術を育み、伝播し、保全していく為にいちばん大切な人間という資源が圧倒的に不足している。
この世界は、枝ばかり茂った幹のない木だ。
欠落のすべてを魔力が埋めている。
人の営みを可能にしているのは、その不自然な力なのだ。
この空虚な街は、そんなこの世界の特徴を凝縮したような場所だった。




