19. 乾杯
北川は翼の助けになってくれる人だ。
ツバサはそう言った。
折を見て、北川とは話す必要がある。
翼も考えてはいたのだが、それは早々に実現した。
その晩のうちに、北川の方から訪ねてきたのだ。
ツバサを送り、翼が屋敷に戻ってすぐのことだった。
夜のまだ早い時間、翼のいる客間のドアがノックされた。
「ちょっといいかな?」
「あ、こんばんは……どうぞ入って下さい」
酒の瓶とグラスをふたつ。
北川は盆にそれだけ乗せてやってきた。
翼に与えられた、この客間はとても広かった。
しかし殺風景なほどに、何もない。
とても使用に耐えないボロ家具を運び出したら、ガランとした空間だけが残ってしまった。
こんな部屋しかなくて、と国本女史がしきりに謝っていた。
翼ひとりではもったいない相撲取りだってどんとこいのキングサイズの寝台。
そして寸足らずなついたて。
この部屋に置かれている家具は、それきりだった。
椅子さえなかったので、ふたりはベッドに腰かけた。
酒とグラスの乗った盆は窓枠に乗せる。
窓にはカーテンもかけられていない。
鎧戸を開け放てば、月の光が差し込む。
「これを君にと。蝋月さんからだ」
北川が差し出したのは、折り畳み型のタブレットだ。
翼用のそれには、鮮やかな紫に染められた皮表紙がしつらえてあった。
翼のイニシャルも刻印されている。
「君の落とした”ケイタイ・デンワ”をモデルにして、蝋月さんがこしらえたんだとさ」
「ありがとうございます……でもこれ、使い方がさっぱり分からないんですが」
ふたつ折りのタブレットを開いてみたが、あるべきボタンの類がない。
折り畳みの片側には鏡が貼られている。
そしてもう片側には魔法の文字が書かれていた。
「その文字に手を当てて念じればいい。君も力を持っているんだろう?できる筈だ」
北川も自分のタブレットを取り出す。
彼のやり方を真似て、翼も恐る恐る試してみた。
翼は魔法の文字が書かれた面に触れた。
架空のキーボードを想像力でそこに置きタップする。
イメージ通りの文字が鏡面に現れた。
なるほど。これは便利だ。
しかしすこぶる気味が悪い。
北川の説明によると、このタブレットの機能はごく少ない。
登録されているメンバー間の通信と、あの書斎のパソコンに蓄えられた内部データの回覧のみだ。
『アカバネ』のコミックもこれで読むことができる。
通信の範囲は、この街に限られる。
そしてこの端末は、現実世界にアクセスすることはできない。
翼はためしにツバサの持つ携帯電話にあててメールを書いてみた。
「本文作成完了……で、エンターっと……」
これでメールは彼女の元へと届いたはずだ。
タブレットから顔をあげると、北川はジッと翼を見ていた。
「あ、どうも……気づきませんで」
翼は北川の持ってきた酒を、ふたつのグラスに注いだ。
「では乾杯」
しかし北川は、乾杯に応じてくれなかった。
どう話を切りだしたものかというように、神妙な表情を浮かべている。
「なぁ……君さ」
たっぷりと間を開けて、北川はようやく口を開いた。
「な、なんでしょう……?」
こうジットリと見つめられては、居心地が悪い。
「その名前は何とかならないのか?」
「え?」
「君のことを”中野”と呼ぶのも、”翼”と呼ぶのも嫌だと言っているんだ俺は」
「そう言われても」
呼びにくいというのも分かる。しかし、翼の名前は翼のせいではない。
「なにか、あだ名はないのか?」
「じゃあテバサキマン。僕のことはそう呼んでください」
このぐったりするほどダサい名は、この中野翼のハンドルネームだ。
あの毎日付けているWEB日記サービスの登録名として使用している。
翼なのでテバサキ。そのまんまだ。5秒で決めた。
「テバサキマンね。了解した」
北川は真面目に頷いた。笑ってくれた方がありがたかったのだが。
「では、改めて乾杯だ」
ふたりはぎこちなくグラスを合わせた。
トロリとした琥珀色の酒。
その軽やかな香りにつられて、一気にあおったのがまずかった。
「……!うっ……ぐぇ……ゴホっ……ゴホ……」
喉に火がついたように熱い。思っていたより、そうとう強い。
翼は盛大にむせかえった。
「おいおいおい!大丈夫か?待ってろ」
そして北川がひとっ走り、水差しに一杯水を汲んできてくれた。
「コホっ……うう……ありがとうございます」
すでに真っ赤になっている翼を見て、北川は困り顔だ。
「男同士腹を割って話すには、いっしょに飲むのが一番だと思っていたんだが」
「ずみません……僕、下戸なんです」
鼻水をすすりながら、翼が謝る。
「男同士の友情を深める方法といえば、殴り合いってのも定番だよな。一度、喧嘩したらマブダチ!っていうあれだよ。やってみようか?」
「仲良くなる前に僕が死んじゃいます!ごく普通のコミュニケーションでお願いします!」
「実は俺もあんまり強くないんだよね、酒」
「……なにしにきたんですか、北川さん」
落ち着かないのか、北川はグラスをしきりに回している。
本人の言う通り、先ほどから彼の酒もすすんでいない。
だけどな、と北川が言った。
「きょうは寝酒が必要だ。ここは本物の化け物屋敷さ。山井蝋月に、その前の屋敷の持ち主だった余目某……ふたりの魔力と、他にも得体のしれない力が集まって絡み合い、屋敷中に満ち満ちている。常に猛獣から生臭い息を吹きかけられているような、最悪な気分だ。君も力を持っているのに何も感じないのか?」
そう嫌味を言われても困る。
「妖気漂うこの屋敷。だからこそテバサキマン、君みたいなけったいなものを隠すにはうってつけだ」
魔力……そんな力があると言われても。
翼はそれを使ったことはない。
ツバサから教わったあのビームだって、怖くて一度も試していなかった。
「君が無知だというのは本当だろうな。さっきもそうだ。自分に施された術を、無防備にほどかせるなんて考えられない。よっぽど自分に自信のあるハッタリ野郎か、それともただの阿呆か」
「はいはい、僕は阿呆の方ですよ」
翼はグラスの酒を、なめる程度にちびりと飲んだ。うん、味は悪くない。
「ふてくされてないで聞いておけ。この世界で生き延びるには必要なことだ。もし君に向かって術を仕掛けてくる奴が現れたら、一目散に逃げろ。もし逃げ切れなかったときは、これだ」
そして北川は自分の喉をかき切るジェスチャーをしてみせた。
「あきらめて死ねってことですか」
「無力で無知な君が、熟練の術者相手に何ができる?だけれど、死ぬ前に悪あがきを忘れるな。敵の目ん玉めがけて、あの子から教わった技を全力で叩き込んでやれ。当たれば御の字だ」
「……僕を狙う敵なんて、現れるわけがないじゃないですか。脅かさないで下さいよ」
言葉とは裏腹に、翼の脳裏にはしっかり阪田ダイムの顔が浮かぶ。
「いまここにいる君は、実体をもたない幽霊のような存在といえる。しかし肉よりも魂に傷をつけられることが恐ろしいということを知っておけ。ここは君の生まれた世界とは違う。危険な世界だ」
北川が自分のタブレットにゆっくりと指を滑らせる。
『アカバネ』一場面が鏡に映し出された。
「俺は蝋月さんとは違う。君がこの世界に来た訳すら、知りたいとも思わない……いや、誤解されると困る。君や『アカバネ』の存在を軽んじているわけじゃないぜ。俺には荷が重い。そう言いたいんだ。世界の神秘を解き明すのに、こんな端役は場違いだ。出しゃばったところで、なにもできんよ」
「端役ね……北川さんが『アカバネ』を読んでショックを受るのは当然です。でもそんな言い方、自分でしなくても」
あのマンガに描かれているのは、作者の六坂ダイが切り取ったこの世界の一部分だ。
六坂ダイは神ではない。
ツバサも言った通りだ。『アカバネ』描かれたことが、北川のすべてではないはずだ。
「ショックを受けたかって?イエスだよ。受けたね。大ショックだ。でもそれは俺のプライド云々の、ちっぽけな問題じゃない」
北川は深いため息をついた。
「『アカバネ』のせいで俺は知りたくもないことを、しこたま知ってしまった。先の大災厄の黒幕やら、世界を破滅させかねない秘跡やら、二条桜木の出生の秘密やら……どれか一つでも、俺が知ったと漏れてみろ。各国付きのアサシンがダース単位で、俺んとこに押し寄せてくる」
北川の愚痴は止まらない。
「あと個人的にキたのは、六坂ダイの下劣な品性の産物であるサービスシーンとやらだ。なんで、この俺が!主様の!ゆらぎ姫のパンチラなんざ拝まないといかんのだ!?喜ぶと思った?いいや、居たたまれないだけだわ!俺は何?家臣として責任とって、詰め腹のひとつでも切っておけばいいわけ?」
そして北川はグラスの酒を一気にあおった。
なにもかも綺麗さっぱり忘れられるものならば、忘れたい。と北川は言った。
北川が悪酔いしたくなるのも当然だと思う。
しかし、翼もひとこと言っておかねばならない。
「でも分かってください。ツバサはあなたを困らせようと思ったわけじゃない。北川さんを信頼して『アカバネ』のことを打ち明けたんです」
「ハッ、ツバサ……ね?ずいぶん彼女と親しいんだな」
あからさまな揶揄。さすがに翼はムッとした。
「ああ、すまん。親しいなんて表現じゃ温かったか。頭上に同じ星をいただく、運命の糸で結ばれたふたりだ。テバサキマンの星、ナカノツバサの星。光は合わさって、栄光となるのか。それとも打ち消し合い闇を結ぶのか。時空を超えて出会った、ふたりの翼に乞うご期待とね」
酔いが手伝ってか、北川の口調は芝居ががってきた。
本当にこの人を、信頼していいんだろうか?
そんな思いが、翼の頭を掠めたその時だった。
ふいに北川が真顔になる。
「質問に答えてくれ。テバサキマン、きみはナカノツバサの味方か?それとも敵か?」
「味方です」
「これから何が起きようと、彼女の味方であり続ける。そう誓えるか?」
「誓います」
敵か味方か。
これまでの二十年、生ぬるく生きてきた翼の人生には存在しなかった区分けだ。
けれども、答えに迷うことはない。
「それならいい。君があの子の味方でいる限り、俺も君の力になろう」
そして北川は、顔をしかめてみせた。
「あの子はこう思いこんでる。君がこの地に舞い降りた、良き訪れを告げる天使だとね。ハハ、ロマンティックだ。付き合いきれない。でも俺も少しだけ期待したい。君がそう悪い奴じゃないってことくらいは」
北川の物言いは、率直だった。
だから翼もすこしだけ、彼を理解することができた。
権力者の蝋月に呼ばれたからではない。
自身の過去に対する償いがしたかったからでもない。
北川はただツバサのために、ここにやってきたのだ。
口の端に、苦い笑みを浮かべて北川は言った。
「俺のことは自業自得だ。もう一度あの時をやり直せるとしても、俺はまた同じように転ぶだろう。救いようのない馬鹿なのさ。中野司もそうだ。どこまでも自分勝手にひとりで歩いて、その道の果てで死んだんだ。その決断が正しいものだったのか、俺はいまでも分からない。でもそれは紛れもない、あの人の意思だった」
だが、ツバサには同じ轍を踏んで欲しくないと北川は言った。
「彼女の歩く道は、できるだけ明るいものであってほしい」
しかし彼女には天より授かった才がある。
強い光には、より暗い影が伴うものだ。
北川はその影を恐れていた。
「他人事じゃないぜ。君も何の因果か、彼女と同じ力を持っているんだから」
同じ星。
ツバサと出会わなければ、翼はそれを知らないままだったろう。
北川が言った。
「君たちの出会いが運命なら、彼女のために君にしかできないことがきっとある」
ふたりの間に降りた沈黙を破ったのは、鈴のような明るいメロディだった。
翼のタブレットの画面が光った。ツバサからメールの返信が届いたのだ。
翼がメールを送ってから、だいぶ時間がたっている。
ツバサは携帯電話で、文字を打つのに慣れていない。
書いては消し、書いては消しを繰り返して、その短いメールをやっと書きあげたのだろう。
そんなツバサの様子を想像すると、翼は微笑まずにはいられない。
ひとりきりの学生寮のあの部屋。
ツバサはもうすぐ眠るのだろうか。
「北川さんと飲んでると伝えたんです。ビックリしてましたよ」
くれぐれも、北川さんに失礼のないように!
ツバサからのメールにはそう書いてあった。
「北川さん、さっきの言葉、直接ツバサに伝えてやってください」
ツバサが北川を選んだことは、きっと間違いではない。
「長い時間、邪魔したな」
翼の言葉には答えず、北川は部屋を出て行った。
ひとりになった翼はタブレットを開き、自分の日記のページにアクセスした。
今日はいろいろなことがあった。
ツバサも北川もそして蝋月も、翼の書くこの日記を読むだろう。
翼はいつも通り平坦な文章で、ありのままを記した。




