第9話 許されないまま
最後の日、達也さんは約束の20分前に来ていた。
俺は10分前に着いたので、負けた気がした。何の勝負でもないのに、最近は約束の時刻が妙に気になる。
「久瀬さんは?」
「時刻までに来るって。俺が早く来ただけです」
達也さんはベンチの端を空けた。
俺は腰を下ろし、自販機で買ってきた缶を両手で包んだ。
「それ、何ですか」
「コーンスープです」
「最後、何粒か残るやつですね」
「先に不安を増やさないでください」
達也さんが笑った。
この人がよく笑う人なのかどうか、俺は結局、知らないままだった。
死亡時刻から49日後の16時40分。
久瀬から聞いた時刻を、俺は覚えていた。今日は講義もバイトもない。だからといって、長く座れば時間が増えるわけではなかった。
「今日は、どこか行きたい場所ありますか」
達也さんは園内を見回した。
「ここでいいです」
それから、俺が何か言う前に付け足した。
「店には行きません」
俺は缶のふたを開けた。
白い湯気が上がり、すぐ薄くなった。
*
達也さんは、最後まで後悔していた。
航平さんに会えないことも、謝罪を聞いてもらえないことも、平気になったわけではなかった。
「向こうから、やっぱり話を聞くって言われるんじゃないかって。今朝も考えました」
俺は缶を膝の上に置いた。
「連絡は、来てないです」
「ですよね」
連絡先を渡していないから、という話はしなかった。
望まれていない手段を探すことなら、俺にもできてしまう。それをしないと決めたところだった。
「あいつ、死んだ奴にそんな冷たくしなくてもええのにって、思ったりもするんですよ」
達也さんは俯いた。
「言わん方がよかったですね」
「俺に言ったことで、藤沢さんへ届くわけじゃないです」
達也さんは、しばらく黙っていた。
それから膝を指でたたいた。音はしなかった。
「嫌な奴ですね、俺」
違いますとは言えなかった。
その一言で全部を決めることも、したくなかった。
「この前、椅子の話してくれたでしょ」
俺が言うと、達也さんは顔を上げた。
「あのときは、俺も笑いました。今日のその話は、何て返したらいいか、わからないです」
達也さんは鼻から息を吐いた。
「正直ですね」
「気の利いたことが言えないだけかもしれません」
缶を傾けると、底で粒が動いた。
口には入ってこなかった。
達也さんが、もう少し振るといいと言う。振りすぎるとこぼれるので、俺は少しだけ角度を変えた。
「惜しい」
「実況、要ります?」
俺たちはしばらく、缶の底の話をした。
全部は取り出せなかった。
最後に飲み口から中をのぞく俺を見て、達也さんが諦めましょうと言った。
その言葉を、何か別の話へ結びつけるのはやめた。
ただスープの粒が残っただけで、それ以上の意味はなかった。
俺は缶をベンチの横へ置いた。
*
久瀬は約束どおり、16時に来た。
達也さんの前に立ち、今日の案内について、改めて説明した。
時間が来れば出発すること。怖いことや聞きたいことがあれば、話してほしいこと。
「後悔が残ってても、行けるんですか」
達也さんが聞いた。
「はい」
「俺みたいなのでも」
久瀬は本を閉じた。
「ここで後悔をなくすことが、案内の条件ではありません」
達也さんはコートも着ていない腕をさすった。
寒さを感じるのか、ただ昔の癖なのか、俺にはわからなかった。
「何か、持っていけますか」
「現実の物を、お持ちいただくことはできません」
達也さんはうなずいた。
「神谷さん。あの紙、捨てました?」
「はい。読めないようにして」
「よかった」
俺はその返事を聞いて、初めて、紙がなくなったことにほっとした。
達也さんは座ったまま、航平さんの話を少しした。
高校時代の席順。掃除当番を代わってもらったこと。卒業してから、しばらく連絡を取らなかった時期。
悪いことをする前の思い出だけを集めても、あとからしたことは消えない。
達也さんはそのことを自分で言い、もう謝罪の言葉を練り直そうとはしなかった。
「最後に、何か言い残すなら」
俺はそこまで言って、止まった。
手紙も伝言も望まれていない。
格好をつけた最後の一言を、俺が求める必要もなかった。
「……いや。何か話したいこと、ありますか」
達也さんは、考えた。
「謝りたいです」
最初に会った日と、同じ言葉だった。
けれど今度は、俺にどこかへ行ってほしいとは続かなかった。
「それだけは、たぶん残ります」
俺はうなずいた。
達也さんはそれを見て、ゆっくり立ち上がった。
*
16時40分まで、あと少しだった。
公園の入り口で、小さな子が落ち葉を靴で踏んでいた。母親らしい人が、もう帰るよ、と呼んだ。
「神谷さん、仕事だったんですよね」
達也さんに聞かれ、俺はうなずいた。
「話、聞いただけなのに」
「聞くって、約束しましたから」
達也さんは俺のかばんを見た。
いつものノートが入っていた。今日は1度も開かなかった。
「会いには行かないって言ってからも、来てくれて。そこは、ありがとうございました」
俺は、こちらこそとは言わなかった。
「はい」
それだけ返した。
久瀬が時刻を確かめ、達也さんの隣に立った。
「ご一緒します」
達也さんはベンチを振り返った。
空き缶を捨てたか気になったのかもしれない。別の何かを見ていたのかもしれない。
俺はわかったつもりにならず、頭を下げた。
2人は遊歩道を歩いていった。
達也さんの肩は少し丸まっていた。最後まで、晴れ晴れとした顔にはならなかった。
並んだ姿が木々の間で薄くなり、やがて見えなくなった。
俺は冷たくなった缶を握っていた。
全部飲んだつもりだったが、底でまた、何かが動いた。
*
戻ってきた久瀬と、今日の時間を確かめた。
スマホに記録しながら、俺は『謝罪』とだけ書いた欄を見た。
「完了、って書くの、変ですね」
久瀬は画面をのぞき込んだ。
「訪問は、お断りを受けて終了。お話を伺う時間は、本日まで。そのように分けてはいかがでしょう」
俺は文字を直した。
達也さんの気持ちまで、終わったことにはしなかった。
「俺、あの店の人に悪いことしました」
「はい」
返事がはっきりしていて、少し痛かった。
「次は、断られたら止まります」
久瀬はうなずいた。
「私も、伝える前にお聞きします。相手が、今その話を望んでいるか」
2人でしばらく歩いた。
駅への道は、喫茶店の前を通らなくても帰れる。
俺は遠回りではない方の、別の道を選んだ。
航平さんがどう過ごしているか、確かめには行かなかった。
店の中で、今日の仕事をしているのだろうと思った。




