第8話 渡さない言葉
店へ戻って謝ろうかと思った。
藤沢さんへの謝罪だ。達也さんの話ではなく、俺自身が余計なことを言ったことについて。
スマホで道を調べかけて、やめた。
もう来ないでほしいと言われたばかりだった。
連絡のつく久瀬なら、今どうしたらいいか聞けるのに。
そう思ったあと、電話番号のない相手を頼りすぎていることに気づいた。
俺は定食屋のエプロンを着けた。
注文を取り、皿を運び、醤油を補充した。
閉店前、テーブルの下から落ちた箸袋を拾っていると、店長が声をかけた。
「神谷くん、その席もう拭いたで」
「はい」
「3回目やで」
俺は布巾を見た。
「きれいには、なってます」
「なってるな。そろそろ隣も頼むわ」
考えていても、仕事が進むわけではなかった。
*
約束の日、達也さんは公園に来ていた。
俺たちは、前とは別のベンチに座った。喫茶店のある通りが見えない方を、俺が選んだ。
「何から話せばいいですか」
達也さんは聞いた。
俺はノートを膝に置いたまま、答えた。
「その前に、俺から言うことがあります」
店で断られたあとも、話を聞いてほしいと食い下がったことを説明した。
達也さんは、意外そうに俺を見た。
「そこまで、してくれたんですか」
「しない方がよかったんです。俺がそうしたくて、勝手に続けました」
久瀬はベンチの端に立っていた。
俺の言葉を補ったり、かばったりはしなかった。
「今日は、お詫びの文章を考えるんじゃないんですか」
「藤沢さんへ渡す文章は、作りません」
達也さんの視線が下がった。
「じゃあ、何のために」
俺はすぐ答えられなかった。
正しいことを言ってやろうとすると、たぶんまた間違う。
「達也さんが話したいなら、聞くためです」
風でノートの表紙がめくれた。
押さえた手の下に、前回の『8万円』が見えた。
「俺が、これから良い人になっても、遅いですよね」
達也さんは低い声で言った。
「仕事をちゃんとするとか。金をためて返すとか。もう、何もできない」
久瀬が達也さんの正面に移った。
「できなくなったことは、あります」
そこで言葉を切った。
俺は次を待ったが、すぐには続かなかった。
「そのことについて、お話しになりたいですか。それとも、今日は別の話にしますか」
達也さんが顔を上げた。
選んでいいのか、と聞くような顔だった。
「……航平の店、最初は椅子が足りなかったんです」
久瀬は静かにうなずいた。
*
開店前の店には、客席の椅子が2脚足りなかったという。
航平さんが注文を間違え、届くまでの間、達也さんの部屋にあった折り畳み椅子を運んだ。
「俺、部屋では床に座ってたんで。なくても困らなくて」
塗装が剥げていたので、2人で塗り直した。
航平さんは緑にしたがり、達也さんは店の床に合わないと反対した。結局、茶色になった。
「初日に、俺が座ったんです。まだ乾いてなくて」
達也さんはそこで少し笑った。
俺も笑いかけ、それから迷った。笑っていい話か、わからなくなった。
達也さんは俺の口元を見て、目を伏せた。
「こういう話をしたら、いい奴だったことになると思ってるわけじゃないんです」
「はい」
「でも、悪いことした話だけやと、あいつと何で友達やったかも、なくなる気がして」
俺はノートを閉じた。
「椅子は、今もあるんですか」
「わかりません。店の奥までは、見てなくて」
確かめに行こうとは言わなかった。
どんな椅子だったかだけを聞いた。
達也さんは膝の上で、背もたれの丸い形を描いた。
高校の帰り道に寄った店。航平さんが初めていれた、濃すぎるコーヒー。店を始めると聞いたとき、達也さんが軽く返した「ええやん」という言葉。
そこまで話してから、達也さんは黙った。
「あいつには、ちゃんとやりたいことがあったんですよね」
遠くで自転車のベルが鳴った。
「俺にはなかったから、借りるくらいええかって。あいつは先に進んでるから、少し頼ってもええって」
袖口を握る指が強くなった。
「頼るって、言葉が違いますね」
俺は答えなかった。
達也さんも、訂正を待っているわけではなさそうだった。
*
次の週、達也さんは便箋に書いてほしいと言った。
俺が黙ると、首を振った。
「渡すためじゃありません。頭の中だけやと、途中で都合のいい方へ変わるんです。書いたら、どんなこと言ってるか見えるかなって」
誰にも渡さず、本人の前で読み返したあと処分する。それでよければと確認して、俺はノートの白いページを開いた。
「便箋じゃないんですか」
「提出先がないので」
達也さんが、かすかに口元を緩めた。
最初の言葉は、『悪かった。でも』だった。
そこまで書いたところで、達也さんが止めた。
「でも、はいらないです」
俺は線を引いた。
続きには、金に困っていた理由が並んだ。それも途中で消すことになった。
理由がなかったわけではない。けれど、理由を全部知れば許してもらえるような書き方になると、達也さん自身が言った。
「返したから、終わったと思ってた。返す前に言ったことは、残ってるのに」
俺はその言葉を書いた。
達也さんは指先で行を追おうとして、紙に触れられずに手を戻した。
「あいつが聞かないって言ったの、初めてちゃんと聞いた気がします」
ノートには、短い文章と何本もの線が残った。
俺が読み上げると、達也さんは何度も直した。
良い謝罪文を完成させるためではなかった。自分の口から出た言葉を、自分で聞く時間だった。
終わったあと、俺はページを切り離した。
「本当に、処分していいですか」
達也さんは紙をじっと見た。
うなずくまで、しばらくかかった。
「はい。あいつには渡さないでください」
*
帰り道、俺は久瀬と並んで歩いた。
切り離した紙は、かばんの内側にしまっていた。家で細かく破って捨てるつもりだった。
「あと、どれくらいですか」
「9日です」
手袋をしてこなかった指が冷えていた。
「これでいいんですかね」
久瀬はすぐに答えなかった。
「私にも、達也さんがどこまで気持ちを整理されるかはわかりません」
「何も解決してない気がするんです」
「藤沢さんに会うという方法は、終わりました。それでも、達也さんとの約束は残っています」
俺は次の予定を開いた。
水曜、16時。公園。
何かを届けるとも、誰かに会わせるとも書いていない。
「次も、座って話すだけかもしれへんな」
「立って話しても構いません」
「そこは大事な違いではないです」
久瀬は少し考えてから、うなずいた。
俺はスマホをしまい、かじかんだ両手をポケットに入れた。




