第7話 聞きたくない話
修司さんとの将棋は、俺が飛車を取られて終わった。
正確には、そのあともしばらく続いた。終わったことに気づいていなかったのは、俺だけだった。
「次は、取られる前に逃げましょう」
「人生の話みたいですね」
「将棋の話です」
帰りに持たせてもらった炊き込みご飯は、まだ温かかった。
その袋を下げて公園へ行くと、久瀬が銀杏の木の下に立っていた。隣には、紺のジャケットを着た男の人がいた。
「良い匂いがしますね」
「晩ご飯です。仕事の前に確保しました」
「計画的です」
褒めるところがそこしかないのも寂しい。
男の人は俺の袋を見て、すぐ目を伏せた。
「食事の前に、すみません」
「まだ夕方ですから。神谷です」
「水野達也です」
達也さんは36歳だった。亡くなってから30日が過ぎていると、久瀬が説明した。
ベンチに腰を下ろした達也さんは、膝の上で手を組んだ。
「友人に、謝りたいんです」
俺はノートを開いた。
傘を返す。将棋を指す。今度は、言葉を届ける。
物を運ぶよりは簡単そうだと、一瞬だけ思った。
「どなたに、何をですか」
「藤沢航平という、高校からの友人です。あいつがやってた喫茶店で、店番を頼まれたことがあって」
達也さんは靴の先をそろえた。
「仕入れ先へ払うための封筒から、お金を借りたんです。次の週には戻せると思って」
「借りたって、了承は」
「取ってません」
ノートに書きかけた『借りた』を消した。
「いくらですか」
「8万円です。あとで返しました。でも、足りないってなったとき、俺、知らないって言ってしまって」
航平さんは、店で働いていた女性に確認をしたという。
その人がどんな思いをしたか、達也さんは詳しく知らなかった。謝りに行く前に辞めてしまい、その後は会えていないらしい。
「返したときも、言い訳ばかりしました。あいつの店なら、すぐ困るほどじゃないと思ったとか。そんなこと、俺が決める話じゃないのに」
達也さんは口を閉じた。
木の葉が落ちて、俺のノートに重なった。
「航平さんには、そのあと連絡を?」
「何度か。でも返事は来なくて。家も変わったみたいで」
「お店は、今もありますか」
「あります。俺は、外からしか見てません」
そこまで聞いて、俺は久瀬を見た。
久瀬は俺の返事を待っていた。
金を返した日から、何年か経っているという。
達也さんには、最後に口をきいてもらえなかった場面が残っていた。航平さんの方には、そのあとにも店を開ける朝が何度もあったはずだった。
俺は、自分の知らない時間の方が長いことを、ノートの端に覚えておこうと思った。
「話を聞いてもらえるか、確認はできます。ただ、謝罪を受け取ってくれるかは、別です」
「わかってます」
達也さんはすぐに答えた。
源蔵さんも、最初はそんなふうに答えた気がした。
*
喫茶店の入り口には、小さな黒板が出ていた。
コーヒーとトースト。今日のケーキ。手書きの文字の横に、営業時間が並んでいる。
俺たちは、客の出入りが落ち着くまで離れたところで待った。
「ここから先は、俺だけでいいですか」
達也さんに聞くと、顔が上がった。
「一緒に行くと、相手が断っても、話を聞けてしまうので」
説明してから、もっと柔らかく言えたかと思った。
達也さんはしばらく黒板を見て、それからうなずいた。
「ここで待ちます」
久瀬にも待ってもらい、俺は1人でドアを開けた。
カウンターの奥に、エプロンを着けた男性がいた。
「いらっしゃいませ」
「すみません。藤沢さんでしょうか」
俺は名前を告げ、私用の相談で、今時間がなければ引き取ると伝えた。
藤沢さんは空いたテーブルを見てから、何の用件かと聞いた。
「水野達也さんに関することで。説明しにくいんですが、本人から言葉を預かっていて」
コーヒーカップを持っていた手が止まった。
「亡くなったことは、聞いています」
「はい」
「親族の方ですか」
「違います」
生前の知り合いかと聞かれ、俺は首を振った。
見えていることを短く説明した。声は、自分で聞いても頼りなかった。
「謝りたい、と言っています。聞くかどうかは、藤沢さんに決めてもらいたくて」
藤沢さんはカップを置いた。
「聞きません」
返事は、思っていたより静かだった。
俺は用意していた続きの言葉を、口の中に残した。
「あいつが今どう思ってるか、知りたくないです。亡くなったからって、それが変わるわけじゃありません」
「……はい」
うなずいたのに、足が動かなかった。
将棋のときは、断られかけたところから話が続いた。
俺が引き下がれば、ここで全部終わってしまう。
「ただ、本当に後悔してるようで。せめて、何を悪かったと思っているかだけでも」
言い終わる前に、藤沢さんの表情が変わった。
「今、聞くかどうかは私が決めるって言いましたよね」
店の奥で、冷蔵庫の低い音がした。
「そうでした」
俺はノートを閉じた。
「すみません。もう伝えません」
藤沢さんは俺を見ていた。
怒鳴られた方が、まだ返事をしやすかったかもしれない。
「あの人のことで、今後ここへ来ないでください。手紙も要りません」
「わかりました」
俺は頭を下げ、ドアに向かった。
出る直前、後ろから声がした。
「神谷さん」
振り返ると、藤沢さんはカウンターに手を置いていた。
「あなたがどういう人かは知りません。でも、私にも、今日やることがあるんです」
うまく返事ができず、もう1度頭を下げた。
外に出ると、袋の中のご飯は冷めていた。
*
達也さんは、俺の顔を見て立ち上がった。
「駄目でしたか」
俺はうなずき、聞くことを望んでいないと伝えた。これから先も、訪問や手紙はしないでほしいと言われたことも。
「事情を、ちゃんと話してくれました?」
胸の奥が固くなった。
「謝りたいということは、伝えました」
「そうじゃなくて、俺が今どんなに」
達也さんは途中でやめた。
俺がどんな顔をしていたのかは、わからない。
「……すみません。神谷さんを責めたいんじゃなくて」
久瀬が、俺たちの間を見た。
「今日は、ここまでにしましょうか」
達也さんはうなずかなかった。
店の方へ目を向けて、ジャケットの袖口を握っていた。
「あと19日なんです」
俺は、その数字を知っていた。
知っていたから、店の中で余計なことを言った。
「今日やることがある」
藤沢さんの声が、まだ耳に残っていた。
俺は達也さんを見た。
「明後日なら、またここで話を聞けます。でも、藤沢さんのところには、もう行きません」
達也さんは長い間、何も言わなかった。
俺も、返事を急かさなかった。




