第5話 終わらなかった将棋
日曜の朝までに、俺は将棋の駒の動かし方をひととおり調べた。
覚えた、とは言っていない。
金と銀の動きの違いがわかってきたところで、出かける時間になった。
相原家の門の前で、源蔵さんが待っていた。
「遅い」
スマホを見ると、9時55分だった。
「5分前です」
「もっと早う来るかと思った」
「それは希望であって約束ではないです」
久瀬が俺の隣で、時刻を確認するようにうなずいた。
そこは味方らしい。
インターホンを押すと、修司さんが出てきた。
俺を中へ招き、廊下の奥へ案内してくれる。
お父さんと、その案内役も同席してよいか聞くと、修司さんは何もない俺の隣を見た。
少し戸惑ってから、「どうぞ」と言った。
座敷の隅には、ふたの開いた段ボールが積まれていた。
食器、本、冬物の衣類。
その手前に、小さな将棋盤が置かれている。
「ここで、いいですか」
俺はうなずき、座布団に座った。
源蔵さんが当然のように俺の隣へ座る。久瀬は少し離れた壁際にいた。
修司さんが駒箱を開けた。
木の駒が、盤に散らばる。
その中に、裏へ赤い丸の書かれた飛車があった。
俺は、思わずそれを見た。
「それ、私が子どものころに書いたんです」
修司さんが言った。
「強い駒を覚えるために。父に叱られました」
源蔵さんは鼻を鳴らした。
「字を覚えればええだけや」
俺は、金と銀の違いをスマホに保存してきたことを、言わないでおいた。
「神谷くんは、どれくらい指せるんですか」
「今朝、駒の動きを復習しました」
「今朝」
「記憶は新鮮です」
修司さんが少し笑った。
俺は駒を並べ始めた。
「そこは桂馬や」
源蔵さんの声で、手を止める。
「これじゃなくて?」
「それは香車」
修司さんが、まだ並びきっていない俺の駒を見ていた。
「……本当に、誰かに教えてもらってるみたいですね」
俺は、返事の代わりに駒を置き直した。
*
源蔵さんの指示は、最初からわかりやすかったわけではない。
「銀を上げろ」
「どっちのですか」
「右」
「どこまで?」
じいさんの眉間にしわが寄った。
久瀬が口を開いた。
「指していただく場所を、指で示されてはいかがでしょう」
源蔵さんは盤に手を伸ばし、升目の上に指を止めた。
そこへ俺が駒を置く。
修司さんから見れば、俺が何もない場所を見つめてから指しているだけなのだろう。
「そこですか」
修司さんは考え、駒を動かした。
次も、その次も、俺は源蔵さんの指を追った。
しばらくすると、じいさんはあまり文句を言わなくなった。
俺が指示を待つことに慣れ、源蔵さんも俺が何をわかっていないのかを覚えたらしい。
「父も、よくその形にしていました」
修司さんが言った。
「攻めてくるのかと思ったら、ずっと待ってるんです。こっちが焦れて変なことをすると、急に来る」
「変なことをする方が悪い」
源蔵さんの返事を伝えると、修司さんは小さく笑った。
「それも、よく言われました」
俺には、どちらが勝っているのかわからなかった。
ただ、駒を取られたときより、修司さんが黙って考えているときの方が、源蔵さんはうれしそうに見えた。
途中で修司さんが、俺にお茶を勧めた。
源蔵さんは盤から目を離さない。
「すぐ冷めるので、どうぞ」
俺は湯飲みに手を伸ばした。
「待て」
慌てて止まると、源蔵さんは修司さんの駒をにらんでいた。
「お茶は飲んでいいですよね」
「好きに飲め」
俺は両手で湯飲みを持った。
仕事中に何かを飲むにも、確認が要る職場だった。
*
次第に、源蔵さんの指示が遅くなった。
盤に伸ばしかけた手を引っ込め、別の場所を見て、また止める。
「……これ、俺が置き間違えました?」
小声で聞いた。
「違う」
源蔵さんは盤を見続けた。
修司さんは両手を膝に置いて、こちらを待っていた。
壁の時計が、何度も小さく鳴った。
やがて源蔵さんは背を起こした。
「今日は、ここまでや」
俺は手を止めた。
「まだ途中ですよ」
「用事がある」
水曜のメッセージがなければ、そのまま修司さんに伝えていたかもしれない。
最後まで指してくれなかった、という言葉が頭に浮かんだ。
「……何の用事ですか」
源蔵さんは答えなかった。
修司さんが俺を見た。
「どうかしましたか」
俺は言い方を探した。
父親がまた逃げようとしていると、俺が決めつけることもできない。
「今日はここまでにする、と言っています」
修司さんの視線が、盤へ戻った。
「そうですか」
静かな返事だった。
源蔵さんが立った。
「庭におる」
じいさんは縁側へ向かい、閉まったガラス戸を通り抜けた。
俺は立ちかけて、やめた。
修司さんがまだ、目の前に座っていた。
「すみません。俺、どうすれば」
「少し休憩しましょう」
修司さんは湯飲みを持ち上げた。
自分の分にも、ほとんど手をつけていなかった。
「本当に父が言ってるんだとしたら、腹が立ちますね」
口元だけが笑っていた。
「最後に指した日も、こんな感じだったんです」
*
最後の対局は、3年前だったという。
修司さんは当時、別の町で暮らしていた。帰省した日の夕方、父親に誘われて盤を挟んだ。
「私が勝ちそうになったら、買い物に行くって出ていって。それきりでした」
修司さんは、駒の端を指でそろえた。
「帰ってきてから続きをしようと言っても、もう遅いとか、今日は疲れたとか」
「それで、指さなくなったんですか」
「ええ。そんなに負けるのが嫌なら、もういいって、私も言ったので」
俺は庭を見た。
源蔵さんは背を向けていた。
「子どものころは、負けたらちゃんと挨拶しろって、あんなにうるさかったのに」
修司さんは、少し息を吐いた。
「そのあと、父の足が弱ってきて、私はこっちへ戻ったんです。顔は毎日合わせてたんですけどね」
将棋をしなくても、暮らしは続いていたのだ。
ご飯を食べ、買い物に行き、天気の話をする。
その間ずっと、盤は押し入れにあった。
「やり直す機会なんて、いくらでもあったんですけど」
修司さんは立ち上がった。
「お茶、入れ直してきます。神谷くんまで気にしないでください」
俺は、気にしていない顔を作れなかった。
*
縁側の戸を開け、庭の源蔵さんに声をかけた。
「勝ち逃げって、言いましたよね」
じいさんは振り返らなかった。
「逃げたん、自分の方じゃないですか」
言うと、源蔵さんの背中が少し固くなった。
久瀬が、俺の横に来た。
「神谷さん。勝ちたいとおっしゃった理由を、まだ伺っていません」
俺は口を閉じた。
言い負かしに来たわけではなかった。
「……何で、勝たなあかんのですか」
源蔵さんは、庭の植木鉢を見ていた。
「あいつ、何でも自分でできるようになった」
俺は縁側に腰を下ろした。
「電球も、役所の書類も。俺が口出す前に終わっとる。テレビまで、知らん操作をする」
「テレビは、俺もたまにわからんです」
源蔵さんが、少しだけこちらを見た。
「将棋だけは、俺が教えてやれた」
その声は、初めて会ったときより小さかった。
「あいつ、負けるたびに、もう1回と言うてな。飯になっても風呂の時間になっても、駒を並べよる」
源蔵さんの指が、動いた。
そこにない駒を、そろえるような動きだった。
「俺に勝ったら、もう来んと思ったんや。盤の向こうへ」
台所から、水の音がした。
俺は座敷を振り返った。
片側の空いた将棋盤が、そのまま置かれていた。
「あのとき勝ってたら、また誘ってくれると思ったんですね」
源蔵さんは何も言わなかった。
久瀬も、何も言わなかった。
俺が何か良いことを言うのを待っているのではなく、源蔵さんが次に話すのを待っているようだった。
「……3年やぞ」
じいさんが、顔を伏せた。
「今さら、何て言うねん」
俺は、盤の方をもう1度見た。
「とりあえず、さっきの続きはどうですか」
源蔵さんが顔を上げた。
「負けるで」
それは初めて聞いた、はっきりした言葉だった。
「俺が指しても、負けると思います」
源蔵さんの口元が、ほんの少し動いた。
「お前は、もうちょっと覚えてから言え」
じいさんは縁側へ近づいた。
俺は立ち上がり、座敷へ戻る道を空けた。




