第3話 時給666円
「それ、ボランティアの勧誘ですか」
久瀬は、俺の手にある空の弁当容器を見てから答えた。
「続けてお願いするなら、お礼が必要だと考えています」
「考えてる段階なんや」
「はい」
公園の時計は、来たときよりずいぶん進んでいた。
レポートは1文字も進んでいない。
「今日みたいなこと、今まではどうしてたんですか」
「話を聞き、案内していました。人の手がなければできないことは、できないままでした」
久瀬は本の角に目を落とした。
「森田さんの傘も、私は運べませんでした」
「返せんかったら、ずっとここにおったんですか」
「いえ。留まれるのは、亡くなってから最長49日です。それまでに、私が案内します」
「用事が残ってても?」
「はい。今日のように、済ませてから行けるとは限りません」
俺は空になった弁当容器を見た。
傘が返ったことを、さっきより少しよかったと思った。
それで、俺に声をかけたのか。
そう言いかけて、違うと気づいた。公園で待ち合わせた理由は、俺の状態を確かめるためだった。
傘の色を聞いたのは、俺だ。
「でも、俺も何でもできるわけちゃうで」
「承知しています」
「大学もバイトもあるし」
「そちらを優先してください」
「無理なときは断る」
「はい」
あまりにすんなり返ってくるので、かえって困った。
「仕事頼む人って、もうちょい渋らへん?」
「渋った方がよいですか」
「いや、そこはそのままで」
俺は弁当容器の袋を結んだ。
「考えます。条件が決まったら、聞かせてください」
久瀬はうなずいた。
「それと。あなたを戻したことと、このお願いは関係ありません。引き受ける義務はありません」
「戻した方は、そもそもそっちのミスやからな」
「はい」
そこを訂正しないのは、少しだけ信用できた。
*
その晩、俺はレポートを書いた。
パソコンはいつもどおり、途中で妙な音を立てた。
買い替えたい。そう思いながら、保存を押す。
スマホには、母親から『ちゃんと食べてる?』と来ていた。
俺は、昼に撮った唐揚げ弁当の写真を送った。
すぐに『野菜も』と返ってきた。
弁当の隅にはキャベツが入っていたので、その部分を拡大して送りかけた。
やめた。たぶん、そういう意味ではない。
画面を閉じると、森田さんの顔が浮かんだ。
うまい、と言っただけで、あんなにうれしそうにするとは思わなかった。
*
次の土曜、俺と久瀬は、低い塀のある家の前にいた。
表札には藤野と書かれている。
「お金を用意できる方に、心当たりがあります」
再び会った久瀬は、そう言った。
ただし、長く会っていないので、今も頼めるかはわからないとも付け加えた。
「俺が話すんですよね」
「はい。今は私の姿が見えない方です」
「死神の代理で、お金の相談に来ましたって?」
久瀬は一瞬、黙った。
「順番は、考えた方がよいですね」
「今日は先に気づいてくれてよかった」
インターホンを押し、神谷と名乗った。
久瀬という人から、藤野さんを訪ねるように言われた、と伝える。
しばらく返事がなかった。
やがて、玄関が開いた。
出てきたのは、白髪交じりの髪を後ろで束ねた女性だった。
俺を見て、それから俺の隣を見た。
「その方は、今も黒いコート?」
「はい」
「本を持ってる?」
「持ってます」
女性は、息を吐くように笑った。
「久瀬さん。私が最後に、何を言ったか覚えてる?」
久瀬が俺を見た。伝えてもよい、というように女性がうなずいた。
「『生きている人の手が必要になったら、私を頼ってください』と。そのあとに」
久瀬は少しだけ首を傾げた。
「『ただし、父の将棋盤は重いので、私以外に頼んでください』と」
俺がそのまま伝えると、女性は声を出して笑った。
「そこまで覚えてるの。嫌やわ」
笑い終わってから、目元を指で押さえた。
「どうぞ。話、聞かせて」
*
藤野澄江さんは64歳だと、自己紹介のついでに言った。
俺の分のお茶を置き、向かいに座る。久瀬は俺の隣にいた。
「昔ね、私も見えてた時期があるんよ」
若いころ、重い病気から回復したあとだったという。
その間に父親を亡くした。
父親が生きている間に最後に交わした言葉は、口論の続きだった。
「謝れば、全部元に戻ると思ってた。でも、父は謝ってほしいんやなくて、自分の言うとおりにしてほしかったんよね」
澄江さんは、湯飲みを両手で持った。
「結局、最後まで意見は合わへんかった。それでも、別れるときは別の話ができた。寒くなるから身体に気をつけろ、って」
久瀬は黙って聞いていた。
「この人、仲直りできますとは言わんかった。父の代わりに説教もせえへんかった。ただ、そばで待っててくれた」
見えなくなったのは、それからしばらくしてからだという。
「神谷くんも、いつか見えなくなるかもしれんね」
俺は久瀬を見た。
「わかりません」
久瀬が短く答えると、澄江さんが俺の顔を見て笑った。
「今、わかりませんって言った?」
「はい」
「変わらへんなあ」
俺は森田さんの傘のことを話した。
途中で、うまく説明できずに何度か言い直した。澄江さんは急かさず、最後まで聞いた。
「そういうことを、続けたいのね」
「まだ、できるかわからないです」
「うん。できる範囲からでええと思う」
澄江さんは、小さな賃貸物件を持っていると話した。
生活に差し障りのない範囲でなら、活動費を出せるという。
「時間も交通費もかかるやろ。見えるからって、その子が全部負担するのは違うと思ってて」
俺は、お茶に伸ばしかけた手を止めた。
「今日初めて会った俺に、そこまでして大丈夫ですか」
「せやから、まず3か月。使った分は記録を見せてもらう。無理やと思ったら、お互いそこで相談しよう」
何でも出せるわけではない、と澄江さんは言った。
最初の上限は、報酬と必要経費を合わせて月3万円。
遠出や大きな買い物が必要なら、先に相談する。予算が足りなければ、勝手に立て替えず引き受け方を考え直す。
俺はメモを取った。
幽霊の話をしに来たのに、急に現実的な数字が並び始めた。
「それで、久瀬さん。神谷くんへのお礼はいくらで考えてるの?」
久瀬が姿勢を正した。
「1時間につき、666円です」
俺のペンが止まった。
「……何でそんな端数?」
「六文銭という、人間の習わしから6のつく額を考えました。さらに、本で666という数字を見つけまして」
嫌な予感がした。
「死に関わる仕事には、ふさわしい数字かと」
「それ、悪魔の方ちゃう?」
久瀬は黙った。
「……別ですか」
「少なくとも、給料決めるときに参考にする本ちゃうやろ」
俺が会話を伝えると、澄江さんは額に手を当てた。
「久瀬さん。神谷くんの生活費は、語呂で決めたらあかんよ」
「おっしゃるとおりです。取り違えていました」
久瀬は俺に頭を下げた。
「金額も、改めて相談させてください」
俺はメモの666を見た。
普通のバイトをもう1時間増やした方が、よほど稼げる。
それは、最初からわかっていた。
「これで生活するのは無理です。定食屋の方は続けます」
2人ともうなずいた。
「こっちは、空いてるときだけ。断ってもええ。移動とか話を聞いてる時間も入れて、交通費は別。それやったら、まずその額で試してみます」
「もっと高くしてもええんよ」
澄江さんが言った。
俺は少し迷った。
「次に何をどれだけ手伝えるかも、まだわからへんので。3か月やって、しんどかったら相談させてください」
「遠慮して、黙って続けるのはなしね」
「はい」
俺はメモに、見直し、と書き足した。
「それと、久瀬さん。今日はまだ引き受けるか相談してる時間やから、勝手に勤務つけんといてな」
「承知しました」
「森田さんの分も、あとから仕事にせんでいいです。あれは俺がやるって言ったんで」
久瀬は、本を開きかけた手を止めた。
それから、静かにうなずいた。
*
澄江さんの家を出ると、夕方の風が吹いていた。
俺のスマホには、条件を書いたメモと、澄江さんの連絡先が増えている。
「これから、よろしくお願いします」
久瀬が頭を下げた。
「こちらこそ。まずは、できるとこから」
俺は右手を出しかけた。
久瀬もその手を見た。
玄関のドアを通り抜けた、白い指を思い出す。
「……握手、無理やったな」
「はい」
俺は手を下ろして、代わりに頭を下げた。
久瀬は、もう1度頭を下げた。
「それ、いつ終わるん」
俺が言うと、久瀬はようやく顔を上げた。
帰り道、コンビニの前で、久瀬が立ち止まった。
窓に貼られた求人広告を、じっと見ていた。
俺も時給の数字を見て、ため息をついた。
「そっち、今は見んとこ」
「次、いつ会います?」
「神谷さんのご都合は」
「水曜、講義のあとなら空いてます」
約束の時刻を決めて、カレンダーに入力した。
予定の名前で、少し迷った。
『死神の助手』
打ち込んでから、画面を久瀬に見せる。
「仕事内容、これで合ってる?」
「はい。お願いします」
俺は保存を押した。
定食屋のシフトとレポートの締め切りの間に、妙な仕事が1つ増えた。




