第2話 晴れた日に傘を返す
借りた傘は、紺色だという。
持ち手に黄色いビニールテープが巻いてあり、留め具のところに白い糸で修繕した跡がある。
「だいぶ詳しいですね」
「間違えたらあかんからな」
森田さんは、俺のスマホをのぞき込んだ。
メモには住所と、弁当屋の名前と、傘の特徴が並んでいる。
「それと、返すんは昼過ぎがええ。昼どきは忙しいから」
「了解です」
「火曜は休み」
「ほかには?」
「唐揚げがうまい」
俺はそこまで打ってから、手を止めた。
「それ、返すのに要ります?」
「帰りに買うかもしれんやろ」
久瀬が、メモを確認するように横から見ていた。
「お腹は空いていますか」
「そっちは俺に聞かんでええ」
森田さんが笑った。
声だけ聞いていれば、公園で話好きのおじさんにつかまっているようだった。
*
森田さんの家には、娘さんが片づけに来ていた。
玄関の脇に小さな車が止まり、後部座席に折り畳んだ段ボールが積んであった。
俺は門の前で立ち止まった。
「何て説明したらええんやろ」
「事実をお伝えするなら、亡くなったお父様から頼まれたと」
「初手でドア閉められるやつや」
久瀬は少し考えた。
「その可能性はあります」
「対策は?」
「お話を聞いていただけなければ、今日は引き返しましょう」
それ以上、うまい方法は出てこなかった。
俺はインターホンを押した。
出てきた娘さんは、40代くらいだった。片手に軍手を持っている。
「どちらさまですか」
「神谷といいます。突然すみません。森田さんが弁当屋で借りていた傘のことで」
娘さんの視線が、俺の顔から、何も持っていない手へ移った。
「お店の方?」
「いえ。大学生です。返すのを手伝えたらと思って来たんですけど」
「父のお知り合いですか」
隣で、森田さんが黙って俺を見ていた。
「……会ったのは、今日です」
娘さんの表情が固くなった。
「父は亡くなっています」
「はい。そのことで、説明しにくいんですけど」
俺は、森田さんが公園で話していたことを伝えた。
紺色の傘。黄色いテープ。白い修繕の糸。
それから、娘さんの横に立つ森田さんを、見ないようにした。
「申し訳ありませんけど、そういうお話は」
「はい。無理に信じてほしいわけじゃないです」
声が上ずった。
こういう言い方をする人ほど怪しいのではないか、と自分でも思った。
「傘に、店の名前はありますか」
娘さんが聞いた。
俺は森田さんを見た。
「持ち手の内側や。薄うなっとるけど」
そう伝えると、娘さんはドアを細く閉め、いったん奥へ戻った。
やがて、傘を持って出てきた。
持ち手には、マジックで『まるや』と書いてあった。
「これ、父のじゃなかったんですね」
娘さんは黄色いテープを親指でなぞった。
「お店に電話して確認します。少し待ってください」
玄関先で待つ間、久瀬は何も言わなかった。
森田さんは、車に積まれた段ボールを見ていた。
「自分の休みに、こんなことさせてな」
俺は返事をしなかった。
娘さんが戻ってきた。
「お店の傘だそうです。そちらにも返しに来てくださると伝えました」
そして、傘を差し出した。
「父のことは、正直、よくわかりません。でも、これは助かります。ありがとうございます」
それ以上、説明を求められなかった。
俺も、森田さんがすぐ隣にいるとは言わなかった。
「返したら、戻ってご報告します」
「お願いします」
傘は、思ったより軽かった。
*
商店街までの道を、3人で歩いた。
晴れているのに長い傘を持っているのは、俺だけだった。
「いつも、あの店で買ってたんですか」
「週に2回くらいやな。自分で作る日もあったで」
「何を?」
「うどん」
「ほかには」
「そば」
麺の種類の話になりそうだったので、俺はうなずくだけにした。
「娘と飯食うこともあったけど、あの子も仕事あるしな。毎日はしゃべらんやろ」
森田さんは、傘の先を見ながら歩いていた。
「あの店に行ったら、おばちゃんが、今日は暑いなとか、阪神どうやったとか言うんよ。俺も、昨日のあれはないわ、とか返して」
信号が赤になり、俺が止まると、2人も止まった。
「それだけなんやけどな」
俺は傘の持ち手を握り直した。
「借りた日は、何を買ったんですか」
「サバの塩焼き」
「唐揚げちゃうんや」
「好きなもんばっかり食うたらあかん」
森田さんは真面目な顔で言った。
*
まるや弁当は、古い薬局とクリーニング店の間にあった。
昼の混雑は終わったらしく、店主がカウンターを拭いていた。
「傘の子?」
俺が名乗る前に、声がかかった。
「はい。森田さんのお宅から、お預かりしてきました」
差し出すと、店主は手を止めた。
傘を受け取り、留め具を外して布を少し広げた。
「きれいに畳んであるわ」
森田さんが、横で小さくうなずいた。
「借りたもんやからな」
俺は、口が動きそうになってこらえた。
「森田さん、急だったんやね。娘さんから電話いただいて、びっくりしたわ」
店主は傘を畳み直した。
「返すの気にしてはったんかな。そんなん、いつでもよかったのに」
「……そう伝えます」
言ってから、少し息を止めた。
店主は娘さんへの伝言だと思ったらしく、うなずいた。
「雨の日な、傘ないからって、弁当の袋を頭に載せて帰ろうとしはってん。無理やろって貸したんよ」
森田さんが、目をそらした。
俺は初めて、死者にもばつの悪い顔があると知った。
「最近見えへんなと思ってたんやけど」
店主はカウンターの角を布巾で拭いた。
そこは、もうきれいだった。
「いつもは、お店でどんな話してたんですか」
俺が聞くと、店主は首をかしげた。
「何やったかなあ。天気とか、野球とか。ほんま、どうでもええ話ばっかり」
森田さんは、うなずいていた。
「そうそう」
「でも、よう笑う人やったわ。こっちがしょうもないこと言うても、ちゃんと笑ってくれはって」
森田さんの口元が、少し緩んだ。
店主は傘を入り口の傘立てに差した。
「助かったわ。次に忘れた人にも貸せる。持ってきてくれて、ありがとうね」
俺は、カウンターに貼られた献立を見た。
「あの、唐揚げ弁当、まだあります?」
*
娘さんに傘を返したことと店主の言葉を報告してから、公園へ戻った。
娘さんは「そうでしたか」と言い、少し笑った。父親が弁当の袋を頭に載せようとした話には、呆れた顔もした。
森田さんは、もう家へは上がらなかった。
公園のベンチに弁当を置く。
ふたを開けると、森田さんが身を乗り出した。
「な。うまそうやろ」
「もう食べていいですか」
衣が、かりっと音を立てた。
「うまい」
「やろ」
森田さんは、自分が作ったみたいに笑った。
俺は飲み込んでから、店主が言ったことを、もう1度話した。
森田さんもその場で聞いていた。けれど、確かめるように、ゆっくりうなずいた。
「どうでもええ話、覚えててくれたんやな」
膝の上で重ねた手が、静かに開いた。
「俺ばっかり、しゃべりに行ってる思うてた」
久瀬が本を閉じた。
「森田さん。どうされますか」
森田さんは空を見た。
しばらくして、立ち上がった。
「行くわ」
俺は箸を止めた。
「今ですか」
「返してもろたしな」
もっと何か聞いた方がいい気がした。
それなのに、何も出てこなかった。
「ありがとう、兄ちゃん」
俺が頭を下げると、森田さんも下げた。
久瀬が隣に立つ。
2人は公園の奥へ歩いていった。
森田さんは途中で振り返り、俺の弁当を指した。
「冷めるで」
俺は、箸を持った手を少し上げた。
2人が木陰に入った。
歩く姿が、木々の向こうへ遠ざかっていくように薄くなった。
目をこすっても、もう誰もいなかった。
俺は残りの唐揚げを食べた。
最後の1個まで、大きかった。
片づけて立とうとしたとき、遊歩道から久瀬が戻ってきた。
来たときと同じ服で、同じ本を抱えていた。
隣だけが、空いていた。
「……行けたんですか」
「はい」
俺は、持ち帰る傘を探してベンチの横を見た。
もう返したんだった。
「神谷さん」
久瀬が、少し間を置いた。
「今日のようなお手伝いを、今後もお願いできませんか」




