第23話 8歳の海
4月分の精算が終わると、助手の報酬は、6か月で7万5924円になった。
交通費などの実費は別に精算していて、その数字には入っていない。
久瀬の記録と俺の記録を合わせると、働いた時間は合計114時間だった。
「ずいぶん、座ってしゃべりましたね」
俺が言うと、久瀬は本を閉じた。
「歩いた時間も、ありました」
「そこを競ってるわけではないです」
澄江さんが、俺の分のお茶を足してくれた。
「気をつけて行ってきてね。帰ったら、また普通に学校行くんやから」
俺はうなずいた。
旅に使うのは、この報酬からためた分。生活費は、いつもの口座に残っている。
亮介さんとは、予約した宿と交通の金額を確かめ、負担の上限も決めていた。
計画上は、貯金を全部使っても、なお亮介さんの負担が残る。余計な買い物を足して、無理に使い切る必要はなかった。
新しいパソコンは、まだ店にあった。
俺は古い方で旅行の日程を開き、印刷した紙をかばんへ入れた。
*
5月4日、咲ちゃんは駅の改札前で跳ねていた。
誕生日なので、新しい靴を履いているらしい。
「砂に埋める靴、それでいいん?」
俺が聞くと、咲ちゃんは呆れた顔をした。
「脱ぐって言うたやん」
亮介さんが横で笑った。
俺は、そうでしたと頭を下げた。
久瀬は少し離れて立っていた。
現地で案内しなければならない死者はいない。それでも、今回は俺たちの旅を見届けたいと、事前に言っていた。
亮介さんには同行について話し、構わないと言ってもらった。久瀬自身も、ほかの案内に差し障りのない範囲で来ることになった。
「切符、要らんのは便利ですね」
小声で言うと、久瀬は改札を見た。
「その代わり、お荷物は持てません」
「知ってました」
亮介さんは大きなバッグ、俺は自分のリュック、咲ちゃんはお気に入りのぬいぐるみの入った小さなかばん。
亮介さんが切符を出す間、咲ちゃんはかばんの肩紐を直していた。
ねじれたところを俺が指すと、自分で直すと言った。
「8歳やから?」
「7歳のときもできたで」
それは失礼しました、と答えると、咲ちゃんは満足そうにうなずいた。
誕生日になったから急に何かができるわけではない。昨日までにも、この子が自分で覚えたことは、たくさんあったのだろう。
肩紐を直した咲ちゃんが、亮介さんの空いている手を握った。
俺は改札の向こうの案内板を見た。
見える荷物は、3人分だった。
*
電車では、咲ちゃんが窓側に座った。
最初の30分でお菓子を食べ、そのあと少し眠った。
亮介さんが上着をかけ、俺は窓の外を見た。
「仕事、休みは大丈夫だったんですか」
俺が聞くと、亮介さんはうなずいた。
「早めに相談しました。帰ってから出る日もありますけど、この3日は大丈夫です」
それから、咲ちゃんを見た。
「久しぶりに、出かける前の日に楽しみで寝られへんって言ってました」
俺は眠っている顔を見た。
母親がいない旅を楽しみにしていいか、誰かへ確認しなくてもよい夜だったなら、それはよかった。
「神谷さんも、楽しんでくださいね」
亮介さんが言った。
「見守り係だけにしてしまったら、来てもらった意味がないので」
俺は少し驚いて、それからうなずいた。
売店で買ったコーヒーを飲んだ。
車窓に海が見えたのは、咲ちゃんが起きてしばらくしてからだった。
「あれ?」
指を差す声につられて、俺たちは同時に外を見た。
*
汐崎の駅から乗ったバスは、細い道を走った。
真帆さんが話していた文房具店は、もう別の店になっていた。
坂の曲がり角にあった赤い郵便箱は、そのまま残っていた。
俺は覚えている範囲で、その話をした。
「お母さん、ここ歩いてたん?」
咲ちゃんが聞いた。
「この坂を、学校の帰りに下りたって聞きました」
咲ちゃんは窓に顔を近づけた。
すぐに、反対側の道にいた犬へ目を移した。
「めっちゃ大きい犬」
俺もそちらを見た。
母親の話をしている途中でも、犬は大きかった。
亮介さんが笑い、俺も笑った。
宿へ荷物を置き、浜へ向かった。
砂は写真で見たより、少し灰色だった。風が強く、波の白いところが遠くからも見えた。
真帆さんは、どんな色だったと話していただろう。
思い出せなかったが、今見えている色は、ちゃんとわかった。
*
咲ちゃんは靴を脱いだ。
亮介さんが靴下を受け取り、濡れた波打ち際には近づきすぎないよう声をかけた。
俺は少し離れた乾いた場所で、穴を掘るのを手伝った。
「どこまで埋める?」
「膝」
「それ、あとで出るん大変やで」
「じゃあ、ここ」
足首より少し上を指した。
亮介さんが砂を寄せ、俺が写真を撮った。
「足、切れてへん?」
「砂で見えへんけど、写真の中には入ってます」
咲ちゃんが笑った。
亮介さんが隣にしゃがみ、もう1枚撮った。
真帆さんの写真と、同じ構図ではなかった。父親の服も、砂の盛り方も、空の色も違った。
俺は撮った画面を、2人に見せた。
「これ、いい」
咲ちゃんが言った。
それで、その写真を残した。
しばらくして、咲ちゃんが海を見たまま静かになった。
「お母さんにも、見せたい」
亮介さんが隣へ座った。
俺はスマホをしまった。
「見せたかったな」
亮介さんはそう言った。
咲ちゃんはうなずき、砂から足を抜いた。
片方の踵に砂が固まっていて、なかなか取れなかった。
亮介さんがタオルで払うと、咲ちゃんがくすぐったそうに笑った。
その笑い声の前に言ったことも、消えたわけではなかった。
*
夕方、宿の小さな食事室で、誕生日を祝った。
亮介さんが前もって相談して用意した、小さなケーキが運ばれてきた。
ろうそくは8本。咲ちゃんは数え、間違いがないことを確かめた。
「8歳、おめでとう」
亮介さんが言い、俺も続けた。
真帆さんの言葉を、今もう1度受信したふりはしなかった。
あの日、先に伝えたお祝いは、咲ちゃんの中にあった。
「お願いする」
咲ちゃんが目を閉じた。
何を願ったか、俺たちは聞かなかった。
目を開け、一息で火を消した。
2本だけ残ったので、もう一息吹いた。
亮介さんが笑い、拍手をした。
俺も手をたたいた。
久瀬は席から少し離れたところで、その様子を見ていた。
ケーキの苺は、咲ちゃんが最初に食べた。
明日の水族館で何を見るかという話になり、亮介さんが予約画面を開いた。
俺は2日目の日程を確かめた。
誕生日の夜には、まだ明日の予定が残っていた。




