第22話 誕生日の前に
4月26日の朝、咲ちゃんは学校のない日だからと、少し遅く起きたらしい。
俺が三浦家へ着くと、まだ髪の後ろが跳ねていた。
「直す?」
亮介さんが聞いた。
咲ちゃんは首を振った。
「あとで。お母さん来た?」
真帆さんは、もう居間にいた。
俺はうなずいた。
今日が最後だということは、亮介さんから何度か、咲ちゃんの言葉に合わせて話してもらっていた。
それでも、知っていることと、その朝を迎えることは違った。
俺はテーブルの端に座った。
久瀬は、入口に近いところで待っていた。
亮介さんは、テレビの電源を切った。
咲ちゃんが見ていた番組の音がなくなり、部屋が急に広くなった気がした。
「消した方がいい?」
亮介さんが娘に聞き直した。
咲ちゃんは少し考え、つけたままでいいと言った。
音量を下げて、テレビが戻った。
真帆さんは画面の隅のキャラクターを見て、これ、最近好きなんですと俺に教えた。
俺は名前を聞き、咲ちゃんに発音を直された。
最後の時間だからといって、いつもの部屋を、別の場所みたいに整える必要はなかった。
笑い声の入る番組を背に、俺たちは普段使っている椅子へ座った。
12時10分まで、1時間ほどあった。
「旅行の荷物、だいぶ決まりました」
亮介さんが言った。
咲ちゃんは自分のリュックを持ってきて、中身を出し始めた。
着替えではなく、小さなぬいぐるみと自由帳と色鉛筆だった。
「服は、お父さんの方」
真帆さんが笑った。
「いつも、そっちから詰めるんです」
俺が伝えると、亮介さんも笑った。
「今回も同じです」
*
咲ちゃんは、真帆さんに聞きたいことを自由帳に描いていた。
文字だけでは忘れるので、絵にしたのだという。
最初は、海のそばに描かれた丸い物を指した。
「これ、お母さんが食べてたアイス」
真帆さんは、駅の近くにあった店だと説明した。
でも、今も売っているかは知らなかった。
「なかったら、別の食べていい?」
咲ちゃんが聞いた。
「もちろん。咲が好きなのを選んで」
俺が伝えると、咲ちゃんは絵の下に丸をつけた。
次は、母親が子どものころ住んでいた家の前を通るかどうか。
今は別の人の家なので、入ったり写真を撮ったりはしない。浜へ行く道から屋根が見えるかもしれない、という話になった。
「知らん人が住んでるんやったね」
咲ちゃんは確認して、また丸をつけた。
最後の絵には、砂浜に4人が並んでいた。
俺は、ペンを持っていない自分の手を見た。
「お母さんは、描いたらあかん?」
咲ちゃんが聞いた。
「一緒に行くのは無理なんやろ。でも、描くのも?」
真帆さんが、すぐ首を振った。
「描いていい。咲が描きたいなら」
俺はそのまま伝えた。
咲ちゃんは母親の服に、黄色を塗った。
真帆さんが今着ている上着とは、違う色だった。
*
しばらくすると、咲ちゃんの手が止まった。
自由帳を閉じずに、亮介さんの袖をつかんだ。
「もうちょっと、おれるんちゃうの」
亮介さんは咲ちゃんの方へ体を向けた。
俺は、真帆さんを見た。
真帆さんは口を開き、すぐには声が出なかった。
「誕生日まで、あとちょっとやのに」
久瀬が近くへ来た。
咲ちゃんには見えないので、俺がその言葉を伝えることになっていた。
「誕生日まで待つことは、できません」
短く、ゆっくり伝えた。
咲ちゃんは、亮介さんの腕に顔を寄せた。
「嫌や」
亮介さんが、その背中に手を置いた。
真帆さんも同じ場所へ手を伸ばし、途中で止めた。
俺は椅子を少し引いた。
誰かのためになることを言おうとしなくても、ここにいてよいのだと思った。
咲ちゃんが泣いている間、時計は止まらなかった。
それが腹立たしくて、俺は1度だけ目をそらした。
久瀬は、時刻を確認してから、また家族へ視線を戻した。
*
咲ちゃんが少し落ち着いたころ、真帆さんが俺へ声をかけた。
「今、話してもいいか聞いてください」
俺が確認すると、咲ちゃんは袖で顔を拭き、うなずいた。
「誕生日、おめでとうって、今日言ってもいい?」
咲ちゃんは少し迷った。
「ケーキは、まだやで」
真帆さんは泣きながら笑った。
「ケーキは、当日に食べて。今日は、言葉だけ先に」
俺が伝えると、咲ちゃんはうなずいた。
「咲、8歳のお誕生日、おめでとう」
俺は、声が揺れないようにゆっくり言った。
真帆さんの続きの言葉を、待った。
「お父さんを助けてあげてね、って言おうと思ってたの。でも、それは、お父さんが大人に頼むことやね」
亮介さんが顔を上げた。
「咲が寂しかったら、寂しいって言っていい。楽しいときは、笑っていい。海で、私のことばっかり考えなくていいからね」
咲ちゃんは亮介さんの腕から顔を離した。
「考えてもいい?」
真帆さんは、何度もうなずいた。
「もちろん」
俺が伝えたその言葉に、咲ちゃんも小さくうなずいた。
*
出発まで、あと数分になった。
亮介さんは何か言おうとして、何度も口を閉じた。
真帆さんの方が先に話した。
「卵焼き、塩入れすぎても、作ってくれてありがとう」
亮介さんが笑い、目元を押さえた。
「そこから?」
俺も笑いそうになった。
真帆さんは、うんと答えた。
「最近、言えてなかったから。毎日のこと」
亮介さんは少し俯いた。
「何が正解か、まだわからんことばっかりや」
真帆さんは隣に座った。
「私も、そうやったよ」
俺が伝えると、亮介さんは声を出さずに息を吐いた。
それから真帆さんのいる方を見た。
「海、行ってくる。咲と。神谷さんにも、手伝ってもらう」
真帆さんはうなずいた。
俺へ振り返り、頭を下げた。
「全部を覚えていなくても、大丈夫です。場所が変わってたら、今の場所を見てきてください」
俺は、はいと答えた。
久瀬が、静かに時刻を告げた。
真帆さんは咲ちゃんの前へしゃがんだ。
「いってきます」
俺が伝えると、咲ちゃんは両手で自由帳を持った。
「いってらっしゃい。……でも、嫌や」
真帆さんは泣きながらうなずいた。
「うん」
その返事も、俺は伝えた。
2人は、居間の窓から見える庭へ出た。
真帆さんは何度も振り返った。久瀬は急かさず、隣を歩いた。
光の当たる植え込みの向こうで、2人の姿が薄くなった。
咲ちゃんは俺の顔を見て、もういないのだと知った。
亮介さんが娘を抱き寄せた。
俺はしばらく、その場に座っていた。
自由帳は開いたままで、黄色い服の人が、砂浜で笑っていた。




