第20話 3人分の旅費
咲ちゃんと会ったのは、4月に入ってからだった。
亮介さんが娘に話し、本人が会ってみたいと言ったという。
俺と久瀬、真帆さんは、約束した時刻に三浦家を訪ねた。
咲ちゃんはテーブルの向こうに座っていた。
俺を見ると、最初に聞いた。
「お兄ちゃん、お母さんの電話?」
俺は靴をそろえたところで止まった。
「電話ではないかな。お母さんが話したことを、俺が伝えられる」
「いつでも?」
「いつでもではないです」
亮介さんが咲ちゃんの隣へ座った。
俺も、勧められた椅子へ腰を下ろした。
「お父さんから、聞いたと思うけど。お母さんと話せるのは、4月26日までなんです。そのあとは、俺にもできません」
咲ちゃんは俺の後ろを見た。
「ここにおるの?」
真帆さんに聞くと、うなずいた。
俺は今いる位置を示した。
咲ちゃんは手を伸ばしかけて、自分の膝へ戻した。
「触れへんのやったね」
俺はうなずいた。
真帆さんは椅子の横にしゃがみ、娘の顔を見上げた。
*
咲ちゃんは、海の話を覚えていた。
アルバムの写真も、誕生日に行く約束も。
「今も、行きたい?」
俺が聞くと、すぐにうなずいた。
それから、亮介さんを見た。
「でも、お父さん、遠いって言うた」
亮介さんは、そう言ったねと答えた。
「電車とバスで行くから、時間がかかる。だから、泊まるかどうかも考えないといけないんだ」
咲ちゃんは指を2本立てた。
「2回、寝たい」
亮介さんが笑った。
理由を聞くと、着いた日にすぐ帰る準備をするのが嫌だからだという。
「お母さんの写真、撮ったとこだけ?」
咲ちゃんが俺を見た。
「ほかにも行きたいところ、ある?」
「水族館。あと、船」
真帆さんが少し笑った。
「船は、私が乗りたがってなかっただけなんです。酔うので」
伝えると、亮介さんが思い出したように笑った。
咲ちゃんは、船はあとで考える、と言った。
母親の思い出をなぞるだけではない予定が、早くも増えていた。
亮介さんが、咲ちゃんへ地図を見せた。
家から近い海と、汐崎の海。どちらも青い色で、画面の上につながっていた。
「こっちなら、朝出て夜帰れる。遠い方は、電車に長く乗ることになる」
咲ちゃんは地図へ顔を近づけた。
「お母さんの海は、どっち?」
亮介さんが汐崎を示すと、咲ちゃんはそこを見たまま考えた。
「こっちがいい。でも、お菓子持っていく」
俺は笑い、車内で食べられる分を相談しようと言った。
真帆さんは、その返事を聞いて目を伏せた。
自分の行きたい場所を娘も選んでくれたことは、うれしいのだと思った。それでも、亮介さんへ急いで予約してほしいとは言わなかった。
咲ちゃんは地図から顔を上げ、長い電車にはトイレがあるかを聞いた。
旅行の心配は、大人と子どもで少し違っていた。
「お母さんが好きやった店、もうないかもしれへんけど、それでもいい?」
俺は聞いた。
咲ちゃんは首をかしげた。
「新しい店に行ったらいいやん」
真帆さんは、娘を見て笑った。
*
その日は旅行を決定せず、亮介さんが費用と休みを確かめることになった。
俺は真帆さんから聞いた浜の場所を、亮介さんの地図で一緒に確認した。
昔あった店や道は、今も同じとは限らない。宿や交通の最新の案内は、亮介さんが手配するときに確かめる。
「神谷さん、同行してもらうことはできますか」
咲ちゃんが部屋へ戻ったあと、亮介さんが聞いた。
「咲が、神谷さんも来ると思っていたみたいで。僕は場所の話を聞ければと思っていたんですけど」
俺はスマホの予定を開いた。
5月4日から6日。大学は休みで、バイトの希望はまだ出していない。
「日程は、空けられます。ただ、費用や役割は先に相談させてください」
亮介さんはうなずいた。
咲ちゃんを預かるための同行でも、真帆さんの代わりになるための同行でもないと、俺たちは話した。
「僕も、父親と娘だけの旅を練習しないといけないんですけどね」
亮介さんが苦笑した。
「今回は3人で行きたいなら、それも旅行やと思います」
言うと、亮介さんは少し考えて、そうですねと返した。
*
数日後、亮介さんが作った概算が届いた。
2泊3日。宿泊、往復の交通、現地の移動と食事。
俺の分まで入れると、全体で10万円前後になりそうだった。
連休なので、空いている宿も限られている。
『うちで今、無理なく出せるのは3万円ほどです。少し超える分は調整できますが、全額は難しいです』
続きには、日帰りや近くの海に変える案も書いてあった。
亮介さんは援助を求めるためではなく、相談できる範囲を知らせてくれていた。
俺は久瀬と会い、費用の見込みを話した。
久瀬は、まず通常の活動費として可能な範囲を確認しましょうと言った。
澄江さんは、次に会ったとき、概算を丁寧に見た。
「聞き取りや連絡の時間は、これまでどおりね。ただ、ご家族の旅行費用を全部出すところまでは、今の約束には入ってへん」
俺はうなずいた。
「活動を続ける分は、予定どおり用意できるよ。この旅は、別に考える必要があるってこと」
突然支えがなくなるわけではなかった。
もともと月3万円の枠でしている活動に、10万円の旅行をそのまま入れることはできなかった。
「小さくするか、時期を変えるか。今回は場所の話を伝えるまでにすることも、できるね」
澄江さんはそう言った。
久瀬もうなずいた。
俺の貯金のことは、2人とも持ち出さなかった。
*
帰ってから、俺はパソコンのカタログを開いた。
軽くて、起動が速い機種。前に触ったキーボードの感覚を、まだ覚えていた。
今のパソコンは、机の上で低い音を立てていた。
報酬用に分けている残高を確認した。
3月分までで、5万8608円。
4月に予定している仕事と記録の確認を終えれば、7万円台にはなる見込みだった。
旅費の不足分と、自分の交通費。
何度計算しても、その数字でかなりの部分を賄えた。
だからといって、使いたいとすぐ思えたわけではなかった。
「買えるとこまで来たのにな」
声に出したら、急に惜しくなった。
俺はカタログを閉じた。
家賃と生活費の口座には、手をつけない。それだけは、先に決めた。
亮介さんへは、まだ返事をしなかった。
真帆さんにも、何も約束しなかった。
今夜決めなければ消える時間ではなかった。
俺は保存を押し、パソコンの電源を落とした。




