第18話 知らないまま応援する
2月27日、誠さんは学校へ向かう孫を見送ってから、公園へ来たという。
俺は講義のない午前中に、久瀬と待ち合わせていた。
空は曇っていたが、雨は降っていなかった。
「今日は、マフラーを忘れずに巻いてました」
誠さんの第一声は、それだった。
「昨日は忘れたんですか」
「昨日も巻いてました」
俺は少し笑った。
誠さんも、そういう話しかないんです、と笑った。
最後の日だからといって、大きな出来事が起こるわけではなかった。
「お母さんには、何か話されました?」
俺が聞くと、誠さんは首を振った。
「前に、神谷さんから伝えてもらったことで、十分です」
前の面会の帰り、理恵さんに何か伝えたいことがあるか聞いていた。
誠さんが頼んだのは、棚の奥の古い急須は使いにくいから無理に残さなくてよい、ということだった。
理恵さんは、使いやすい方だけにすると答えた。
「お茶の道具ばっかり増やしてたんです。いれる手は2本しかないのに」
誠さんは自分で笑った。
俺は、今朝も理恵さんがどれかの急須でお茶をいれたのだろうと思った。
どれを選んだかは聞かなかった。それは、もう残った家の台所のことだった。
「夜、うどんを作ったんです。2人で」
誠さんは、昨日の台所の様子を話した。
颯太くんが卵を落とし、理恵さんが火を弱めた。ねぎは少しだけにして、出来上がる前から颯太くんが味見をした。
「熱いって言うてました」
「そら、鍋から直接は」
「私も、前にやりました」
誠さんは少し胸を張った。
受け継がなくてもいいところまで、ちゃんと似るらしかった。
*
久瀬が時刻を確認した。
出発までは、まだ少しあった。
誠さんは家族のことを、もう1度俺に聞いた。
「これから、あの子に会うことはありますか」
「約束はしていません。もし連絡が来たら、返事はします」
これからも見守ると、簡単には言えなかった。
颯太くんにも理恵さんにも、俺を生活に入れ続ける義務はない。
「そうですね」
誠さんはうなずいた。
「試験のあと、伝えてくれる人がおらんのやなって。まだ、そんなことを考えてしまって」
久瀬が隣に座った。
「結果を知りたいお気持ちは、なくさなくて構いません」
誠さんは自分の手を見た。
「じゃあ、持ったまま行きます」
俺は昨日買ったパンの袋を、かばんの奥へ押し込んだ。
朝ご飯を食べていなかったが、今は口を動かす気になれなかった。
「神谷さんは、大学楽しいですか」
不意に聞かれた。
「楽しい日もあります。課題が重なると、嫌になります」
「友達は?」
「います。昼飯食べたり、授業の話したり」
誠さんは、うれしそうにうなずいた。
「颯太にも、そういう日があるとええな。学校の名前は、ようわからんでも」
俺は少し考えてから、答えた。
「そうですね」
必ずあるとは言えなかった。
でも、そうなってほしいとは、俺も思った。
*
出発前、誠さんはベンチから立った。
膝に手をつく動作をしてから、体重をかける必要がないことを思い出したように、手を離した。
「長いことやってる癖は、抜けませんね」
俺は立ち上がった。
「お茶をいれる癖も、残ってそうですね」
「手が出るんです。やかんが鳴ると」
誠さんは笑い、それから家のある方向を見た。
「もう、2人で止められます」
久瀬がそばへ来た。
誠さんは俺へ頭を下げた。
「結果より先に、話せてよかった。ありがとうございました」
俺も頭を下げた。
何を返すか考えたけれど、長い言葉は出てこなかった。
「いってらっしゃい」
誠さんは、はいと答えた。
久瀬と並び、園内の道へ進んだ。
木の枝には、まだ葉がなかった。2人の姿は、その細い影の向こうで見えなくなった。
俺はベンチへ戻り、パンの袋を出した。
食べ始めてから、腹が減っていたことがはっきりわかった。
飲み込むと、冷たい空気が胸に入った。
*
3月になって、家電店へ行った。
新しいパソコンの画面は明るく、キーボードを打つと、すぐ文字が出た。
当たり前のことに感動した。
「持ち歩きもされますか」
店員に聞かれ、俺はうなずいた。
重さを確かめ、充電器の大きさを見た。
欲しい機種は、税込で8万円台だった。今の貯金だけでは少し足りないが、もう夢みたいな額ではなかった。
カタログを持って外へ出ると、久瀬が待っていた。
今日は活動の記録を確認する約束だった。
「決まりましたか」
「これが候補です。立ち上がるの、めっちゃ速い」
「立ったまま使う物ですか」
「起動の話です」
久瀬はカタログを見直した。
俺は、今のパソコンでも春の課題までは間に合うと自分に言い聞かせた。
故障してからでは遅い。わかっているので、データだけはこまめに移している。
「あと、何回分かな」
報酬の残高を見ながらつぶやいた。
誰かの未練を数えるみたいになってしまい、画面を閉じた。
働いた分の報酬を買い物に使うのは、悪いことではない。それでも、変な照れが残った。
「買えたら、普通に喜んでいいですよね」
久瀬が俺を見た。
「もちろんです。神谷さんへの報酬ですから」
俺はカタログを折らずに、かばんへ入れた。
*
3月17日の昼、理恵さんからメッセージが届いた。
『颯太です。自分で選んだ高校に受かりました』
続きには、直接お礼を言いたいので母のスマホを借りた、とあった。
俺は大学の食堂の端で、画面を見つめた。
『おめでとう。頑張ったね』
そう打ってから、『おじいちゃんも喜んでいると思います』を続けかけた。
消した。
誠さんが今、何を知って、何を思うかは、俺にはわからなかった。
『伝えてくれてありがとう。今日のご飯は決まった?』
少し経って、返信が来た。
『カレーです』
俺は笑った。
うどんにしなかったことを、誠さんに話せたらと思った。
そう思うことまでは、やめなくてよかった。
夕方、久瀬と会ったとき、連絡が来たことを伝えた。
家族の私的なやり取りを全部見せる必要はないので、合格したことだけ話した。
「そうですか」
久瀬は静かにうなずいた。
「これ、俺たちの仕事が成功した、とは違いますよね」
「試験を受けたのは、颯太さんです」
俺はうなずいた。
見送った2月27日の記録を、書き換える必要はなかった。
結果がまだ決まっていなかった日に、誠さんは伝えることを伝えていた。
かばんの中で、パソコンのカタログが曲がりかけていた。
俺は教科書の間へ挟み直した。
次に買いに来る日を、そろそろ決めてもよさそうだった。




