第15話 暖簾をしまう日
最後の昼営業は、いつもより早く暖簾が下がった。
用意したご飯がなくなったからだった。
感動的な挨拶より先に、和代さんが炊飯器をのぞいて言った。
「終わり。もう空っぽ」
手伝いに来ていた姪の人が、入り口に『本日の昼営業は終了しました』の札を出した。
俺は最後の客として、カウンターで食べ終わったところだった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま。食器、そのままでええよ」
いつものバイトの癖で、皿を重ねかけた手を止めた。
正一さんが隣にいた。
「味噌汁、ちょっと薄かったな」
俺は振り返った。
「口だけ出すの、なしでは」
「感想や」
和代さんに聞かれて伝えると、少し薄くしたのだと言われた。
「私が食べる分もあるからね」
正一さんは、黙って鍋を見た。
怒っている顔ではなかった。
*
姪の人が買い物に出て、店内は静かになった。
夜の最後の営業まで、和代さんには少し休む時間があった。
俺と久瀬の用事は、その間に済ませることになっていた。
和代さんはカウンターの内側ではなく、客席に座った。
正一さんがその隣へ行く。
俺は2人の顔を見られる位置へ、椅子を動かした。
「ここに座るの、何年ぶりやろ」
和代さんはカウンターを手でなぞった。
正一さんが、傷のあるところを指した。
「あれ、俺が鍋落とした」
「あなたが落としたのは、もっと右」
俺が伝える前に、和代さんは別の傷を見つけていた。
俺は正一さんの言葉を伝え、和代さんの訂正も繰り返した。
「そうやったか」
正一さんは、初めて見る店みたいに辺りを見た。
壁の時計。使い込んだ献立立て。空になった箸入れ。
和代さんは、それぞれを残すとも捨てるとも言わなかった。
窓の外を、買い物袋を下げた人が通った。
閉まった入り口に気づいて足を止め、和代さんへ手を振った。和代さんも客席から手を振り返した。
「あとで来るって言ってた人?」
正一さんが聞いた。
俺が伝えると、和代さんはうなずいた。
「夜、家族で。座敷、取ってある」
正一さんは座敷を見た。
昼の客が使った座布団は、もうきれいに並べ直されていた。
自分がいなくなったあとの今夜にも、この店には客が来る。その用意を妻が済ませていることに、正一さんは小さくうなずいた。
「寂しくなるな」
正一さんが言った。
伝えると、和代さんはうなずいた。
「なるね」
前なら、だから続けろとつながった言葉だった。
正一さんは今日は、続きを変えた。
「でも、朝は寝とき」
和代さんは目を閉じた。
少し経ってから、開けた。
「そうします」
*
正一さんは、しばらく何かを探すように手を動かした。
布巾でも包丁でもなく、言葉を探しているのだと俺は思った。
「店、閉めてええよ、って言おうかと思ったんや」
俺はうなずいて、続きを待った。
「でも、俺が許可する話でもないんやな」
和代さんへ伝えると、小さく笑った。
「もう決めてるからね」
正一さんも笑った。
しばらくして、調理着の前を整えた。
「40年、よう働いたな」
俺は、そのまま伝えた。
和代さんの指が止まった。
「あなたもね」
正一さんは、何度かうなずいた。
夫婦の40年のうち、俺が知っているのは、この数週間に聞いた断片だけだった。
大変だったことも、楽しかったことも、もっとあったのだろう。
全部わからないままでも、今の2つの言葉をつなぐことはできた。
「映画、寝んと見るわ」
正一さんが言い、すぐに自分で首を振った。
「違うな。俺は、行けへんのやな」
俺は言い直すまで待った。
「楽しんでおいで」
和代さんに伝えると、返事が出るまで少し時間がかかった。
「うん。帰ってきたら、仏壇には話すけど。返事はせんでええからね」
正一さんが久瀬を見た。
久瀬は黙って頭を下げた。
戻ってきて聞けるとは、誰も言わなかった。
*
和代さんは椅子から立ち、入り口を開けた。
まだ明るい道へ、冬の空気が入ってきた。
「いってらっしゃい」
正一さんは戸口で振り返った。
「包丁、奥の1本だけ残してくれ。使いやすいやつ」
伝えると、和代さんは即座に返した。
「それは、もう分けてある」
正一さんは安心したように笑った。
久瀬と並び、商店街の脇道へ歩いていった。
見えなくなるまで、和代さんはドアを押さえていた。
俺がうなずくと、ゆっくり閉めた。
「神谷くん、お茶飲んでいく?」
和代さんは言った。
声が少し掠れていた。
「時間、大丈夫です。いただきます」
俺は客席へ戻った。
和代さんがお茶を用意する間、俺は何も話さなかった。
時計だけが、いつもと同じ音で動いていた。
*
その週、俺は澄江さんの家で、3か月分の記録を広げた。
最初に決めた試行期間が終わるためだった。
久瀬は隣に座り、俺が時間を読み上げるたび、記録と照らしてうなずいた。
「授業、無理してへん?」
澄江さんに聞かれ、俺は首を振った。
「試験の前は、減らしてもらいました。バイトも、今までどおりです」
「断りにくくはない?」
俺は少し考えた。
「あります。でも、断ったあとの相談はできます」
久瀬が俺を見た。
その顔を見て、俺は言い足した。
「今後も、そこは言います」
澄江さんは、活動費の欄に指を置いた。
3か月とも、報酬と交通費などを合わせた額は月3万円以内に収まっていた。
その範囲で、次の3か月も続けられると話してくれた。
「お礼の額も、話し直そうか」
俺は、書類の上の666を見た。
最初に聞いたときと違って、どんな時間に対する数字かは知っていた。
「今の回数なら、次の3か月も同じでお願いします。増やせそうにないので、頼まれる量を増やすのはなしで」
「うん。金額も回数も、途中で相談してええからね」
俺はうなずいた。
いい話ができたから、時間がかからなくなるわけではない。そのことは、3人で確かめた。
*
帰りに、閉店したおおばの前を通った。
暖簾は下がっていなかった。
ガラスの内側には、長い間ありがとうございました、と新しい紙が貼ってあった。
奥で、和代さんが箱を運んでいた。俺に気づき、手を上げた。
ドアが開いた。
「映画、行けました?」
「来週。時間、決まったよ」
和代さんはスマホの予定を見せてくれた。
朝の回だった。
「目覚まし、かけるんですね」
「そうやねん。結局」
和代さんが笑い、俺も笑った。
少し歩いてから久瀬に会い、その話をした。
「ご自分で決めた時刻ですね」
久瀬はそう言った。
俺は、来週のシフトを開いた。
死者の用事も、俺の予定も、誰かが閉めた店のその先も、別々に続いていた。




