第14話 妻の予定
正一さんが店の戸口から離れると、久瀬も歩き出した。
俺は暖簾のなくなった入り口を振り返った。
閉店のお知らせは、ガラスの内側に貼られていた。雨で濡れないようにという、小さな準備だった。
「あの人、店が好きやったんや」
正一さんは言った。
「朝、客が来る前に花を飾ってな。箸入れも自分で選んで。好きやなかったら、あんなことせえへん」
俺は、カウンターの一輪挿しを思い出した。
白い小さな花が入っていた。
「好きだったんだと思います」
「やろ」
「今も、好きかもしれません。でも、閉めるって言ってました」
正一さんは足を止めた。
「兄ちゃん、どっちの味方なんや」
答えを探していると、久瀬が隣に立った。
「ご希望をそのまま実現するとは、お約束していません」
淡々とした声だった。
けれど、そのまま話を終わらせなかった。
「正一さんは、閉店したあと、和代さんにどう過ごしてほしいのでしょう」
正一さんは、商店街の通りを見た。
「元気に。人としゃべって。家で1人にならんように」
俺はノートを開いた。
店を続ける、の下に、その3つを書いた。
「それも、聞いてみませんか。閉めたあと、何をしたいのか」
正一さんは返事をしなかった。
けれど、もう味方かどうかは聞かなかった。
*
次に会うまでの間、俺は定食屋で夜のシフトに入った。
最後の客が帰ったあとも、仕事は残っていた。
揚げ物の網を洗い、床を拭き、ゴミをまとめる。
店長は奥で、翌日の仕込みをしていた。
「毎日これ、しんどくないですか」
俺が聞くと、店長は包丁を置いた。
「しんどい日もあるで」
それから、俺の手元を見た。
「神谷くん、今日はしんどい?」
「あ、俺のシフトの相談じゃなくて」
「相談でもええけどな。先に言ってもらえたら、こっちも考えられるし」
俺は、はいと返した。
仕事が好きか嫌いかだけでは、明日も同じだけ働けるかは決まらない。
そんな当たり前のことを、俺は誰かの40年について話すとき、忘れていた。
店を出ると、手袋の中まで洗剤の匂いがした。
明日は午前から講義がある。
予定を見直し、次の面会を夕方まで延ばせないか、和代さんに連絡した。
返信は『その方が助かります』だった。
*
和代さんは、閉店後の予定を小さな手帳に書いていた。
店の予約用とは、別の手帳だった。
「これ、今年から?」
正一さんが聞いた。
俺が伝えると、和代さんは首を振った。
「毎年、買ってるよ」
病院。銀行。友人の名前。
細かな予定の間に、鉛筆で丸がついていた。
「2月の水曜。映画見に行くんです。朝の回」
和代さんは、まだ上映時間が決まっていないので丸だけにしている、と話した。
若いころからの友人と行く予定らしい。
「あの人、映画の途中で寝るの。せやから最近は誘ってへんかった」
正一さんが、あれは映画が長すぎたと言った。
伝えると、和代さんは声を出して笑った。
「全部長いって言うやん」
俺も笑った。
正一さんは、少しだけ不満そうだった。
「それと、姉のところへ泊まりに行こうと思って。日帰りばっかりやったから」
「寂しくは、ならへんかって言ってます」
和代さんは手帳から顔を上げた。
「なるよ」
返事は早かった。
「家に帰っても返事がないのは、もう寂しい。店がある間も、寂しいよ」
正一さんが俯いた。
「お客さんと話してる間、忘れることはある。でも、そのために毎朝5時に起き続けるんは、今の私には違うの」
俺はペンを置いた。
和代さんは、閉めたあとの寂しさを知らないから決めたわけではなかった。
「朝、何もせんでええってなったら、逆に困るかもしれんね」
和代さんは、自分で笑った。
俺が思わず、何か新しい趣味をと口にしかけると、先に言葉が続いた。
「困ったら、そのとき考えるわ。今から次の仕事を作らんでもええかなって」
俺は口を閉じた。
空いた時間を何かで埋めれば安心だと、勝手に思っていた。
正一さんも、似たことを考えたのかもしれなかった。腕を組んだまま、何も言わなかった。
和代さんは手帳を閉じ、お茶をひと口飲んだ。
昼と夜の支度の間に、次にすることが書かれていない時間があってもよいのだと、俺はその姿を見ながら考えた。
*
その日は、店で使う食器を数えていた。
引き取ってくれる近所の店へ、数を知らせるためだった。
俺は和代さんに頼まれた分だけ皿を並べ、数を読み上げた。
「大きいのが12枚。こっちは8枚」
正一さんが皿の1つへ顔を寄せた。
「それ、端が欠けとる」
俺は手を止めた。
確認すると、ごく小さな欠けがあった。和代さんへ知らせ、別に分けた。
「危ないから、ずっと奥へ避けてたんや」
「言うてくれたらよかったのに」
和代さんはそう言ったが、皿を捨てる前に布で包んだ。
正一さんが、その手元を見ていた。
「この柄、俺が選んだ」
「知ってるよ。高かった」
俺が間に入ると、会話は少し遅くなる。
それでも2人の返事は、ときどき俺が追いつかないほど自然につながった。
皿の数を数え終わったころ、正一さんが言った。
「俺は、店がなくなったら、何も残らん気がしてた」
伝えてよいか聞くと、正一さんはうなずいた。
和代さんは手を止め、長く黙った。
「何もって、私は?」
怒った声ではなかった。
その分、正一さんの肩が深く落ちた。
「……そういう意味やない」
俺が伝えると、和代さんはうなずいた。
「うん。でも、私はまだおるから」
皿を重ねる音が、小さく響いた。
*
帰り際、正一さんは閉店の紙の前に立った。
俺は横で、コートの襟を立てた。
「最後の日まで、おってええかな」
久瀬は本を開いた。
49日になるのは、閉店の翌日だと確認してくれた。
「はい。日付の範囲では可能です。店内にいらっしゃることは、和代さんにも確認しましょう」
和代さんは店の中から、俺たちの話を聞いた。
正一さんの言葉を伝えると、口元を少し上げた。
「手ぇ動かさんのに、口だけ出すのはなしやで」
正一さんが、俺を見た。
「注文が厳しい」
「今までの分かもしれませんね」
余計なことを言った気もしたが、正一さんは笑った。
俺は閉店の日、昼の客として来る約束をした。
その日の夜は、自分のバイトがある。最後の片づけまでは残れないと伝えた。
和代さんは、それでいいと言った。
「あの人の見送りは、昼過ぎにして。私も、ちゃんと時間取るから」
正一さんは少し驚いて、それからゆっくりうなずいた。
店の終わりより先に、自分で出ていく時間を決めた。




