第13話 閉店のお知らせ
正月休みに実家へ帰ると、母親が俺の顔を見て言った。
「痩せた?」
「たぶん、変わってない」
「ほな、もうちょっと食べ」
どちらの答えでも、ご飯は増えるらしかった。
父親には大学のことを聞かれた。俺は講義とレポートの話をし、定食屋の店長が新しい炊飯器を買った話をした。
ほかに話していないことがあると、自分だけが知っていた。
アパートへ戻った翌日、公園で久瀬と会った。
「お正月って、そっちにもあるんですか」
「日付は変わります」
「休むとか、おせちとか」
「食事はしません」
「知ってたけど、もうちょっと広がると思った」
久瀬は少し考えた。
「年末年始に、ご家族のことを話される方は多いです」
それは、少しわかる気がした。
俺は母親に持たされた冷凍の煮物を思い出した。冷凍庫の半分が埋まっている。
「今日も、ご家族の話ですか」
「はい。お店を続けてほしい、と」
*
食事処おおばは、駅の南側の商店街にあった。
俺のバイト先とは違い、カウンターと小さな座敷だけの店だった。
入り口に、白い紙が貼られていた。
『1月31日をもちまして、閉店いたします』
紙の前に、白い調理着の男性が立っていた。
「勝手に決めよって」
俺が近づくより先に、声がした。
大庭正一さん。67歳。12月の半ばに亡くなったと、久瀬から聞いた。
「40年やぞ。俺らがずっとやってきた店を、こんな紙1枚で」
窓の向こうで、女性が湯飲みを並べていた。
奥さんの和代さんだという。
「和代が、俺に遠慮しとるんや」
「遠慮?」
「俺の作ってたもんが出せんから、看板に悪いとか思うてる。あいつの料理もうまいんやから、続けたらええ」
俺は閉店の紙を見た。
日付も字も、はっきりしていた。
「その理由は、奥さんから聞いたんですか」
正一さんが俺を見た。
「俺には返事せえへん」
「ほかの人に、そう話してたとか」
返事がなかった。
俺はノートを開いた。
「まず、和代さんがどう考えてるか、聞いてもいいですか」
「だから、それは俺が」
「正一さんの考えも聞きます。でも、奥さんの話は奥さんに聞きたいです」
自分の声が少し硬くなった。
久瀬が正一さんに向き直った。
「お店に入ることから、了承をいただきましょう」
正一さんは渋い顔でうなずいた。
*
昼の営業が終わるころ、俺は店を訪ねた。
和代さんは最初、片づけを手伝う業者かと思ったらしい。
違うと説明すると、腕を組んで俺を見た。
「あの人の声が、聞こえるん?」
「はい」
「便利やねえ。私は生きてるときから、呼んでも返事してもらえへんかったのに」
横で正一さんが、そんなことはないと言った。
今のは伝えなくてもいい気がしたが、和代さんが聞いた。
「何て?」
「そんなことはない、と」
「ほら、そういうとこ」
俺は返事に困った。
和代さんは俺の顔を見て、少し表情を緩めた。
「あなたが困る話やないね。座って」
今、夫の話を聞いても構わないか改めて尋ねた。
和代さんは、閉店をやめろという話なら答えは決まっているけれど、と言った。
「閉めます」
俺はペンを止めた。
正一さんはカウンターの向こうから、妻の顔を見た。
「理由を、聞いてもいいですか」
「朝、目覚ましをかけずに起きたいの」
予想していなかった答えだった。
「朝から仕入れして、昼の支度して、休憩中に夜の仕込み。店閉めて洗い物したら、もう寝る時間やろ。あの人と決めてやってきたから、それでよかったんよ」
和代さんは、指についた小さな絆創膏を押さえた。
「でも、今は別のことをしたい」
正一さんが口を開いた。
「お客さんは、どうするんや」
伝えてよいか聞くと、和代さんはうなずいた。
その言葉を聞いてから、窓の外を見た。
「ほかにも、ご飯食べるところはあるよ」
*
俺は手元のメモを見た。
正一さんの言った『妻が遠慮している』には、線を引いた。
和代さんは、俺が何を書き直したか尋ねなかった。
「寂しくは、ないですか」
聞いてから、続けてほしい側の質問だったかと思った。
和代さんはしばらく考えた。
「寂しいよ。ここの電気消すところ考えたら、嫌になる日もある。でも、続けたいかとは、別やね」
カウンターの隅には、閉店までのカレンダーが置かれていた。
予約の名前がいくつも書き込まれている。
話の途中で、店の電話が鳴った。
和代さんは俺に断り、受話器を取った。昔よく通っていた客かららしかった。
「うん、今月いっぱい。夜は予約してもろた方が助かる」
しばらく相槌を打ってから、笑った。
「惜しんでもらえるうちにやめるんも、ええかなと思って」
電話を切り、カレンダーに名前を書き足した。
俺は正一さんを見た。夫は妻の手元を、初めて見るような顔で見ていた。
閉店の紙を貼っただけではなかった。和代さんは、長く来てくれた人に、それぞれ自分の言葉で終わりを伝えていた。
受話器を戻した手が、またカウンターの布巾へ伸びた。
俺は質問を急がず、拭き終わるまで待った。
「お客さんには、自分から言いました。材料屋さんにも。片づけに来てもらう日も決めてる」
正一さんは、何も書かれていないと思っていた未来をのぞき込むように、カレンダーへ顔を寄せた。
「手伝いは、あるんですか」
俺が聞くと、和代さんはうなずいた。
閉店までの忙しい日は、近所で暮らす姪が手伝うという。
俺に働いてほしいという話ではなかった。
「神谷くん、お昼食べた?」
「まだですけど」
「残ってるのでよければ、食べていって。もちろん、普通にお代はもらうよ」
俺は少し笑い、献立を見た。
正一さんは何かを言いかけたが、和代さんはもう厨房へ入っていた。
*
サバの煮つけ定食は、甘辛い匂いがした。
箸を入れると、身がほろりとほどけた。
「うまいです」
和代さんは味噌汁を置きながら、よかったと笑った。
正一さんが俺の隣に立った。
「な。続けられるやろ」
俺は飲み込んでから、顔を上げた。
「料理がうまいことは、わかりました」
続きを言おうとして、箸を置いた。
「でも、続けたいかは、さっき聞きました」
正一さんの顔が強張った。
俺は定食の値段を確かめ、財布から自分の昼食代を出した。
仕事のための訪問でも、腹が減ったのは俺だった。
店を出るとき、和代さんが暖簾を外した。
正一さんは、隣でそれを見ていた。
「閉店の日、何をするんや」
俺が伝えると、和代さんは暖簾を畳む手を止めた。
「いつもどおり。ご飯作って、売って、片づける」
少し間を置いてから、続けた。
「来るなら、止める話はせんといてね」
正一さんの返事を、俺は待った。




