温度差の力学
反射的に振り返ると紗月が立っていた。
都内の有名私立校のセーラー服姿はこの店の雰囲気にしっくり溶け込んでいる。
「紗月……何故ここに?」
ヨシオの困惑を無視して紗月は向かいの椅子に腰掛けた。
「偶然です」
さらりと言うがその目は探るような光を湛えている。
「私、おじさんを援助してあげてもいいですよ」
紗月の声音がヨシオの耳朶を撫でた。
クリーム色のカフェオレが波打つように見える幻覚を覚える。
「どういう意味だ?」
質問への答えは曖昧な微笑みだった。
彼女のスクールバッグからはブランドの財布が覗いている。
「その代わり……」
言葉を区切る間合いが緊張を高めた。
「私の家で手伝ってもらいたいことがあります」
店内照明が紗月の顔を斜めに照らし表情に陰影を与える。
ウェイトレスが新しい客を迎えに行ったタイミングで小声で続けた。
「例えば食事作りとか掃除とか」
周囲の空気が凍りつく音がした。
他の客たちが密かに聞き耳を立てている。
特にカウンター内ではマスターらしき男性が皿拭きの手を止め凝視していた。
汚れた作業着のヨシオと完璧な制服姿の女子高生—
あまりにも極端な対比が彼らの好奇心を掻き立てる。
「冗談じゃない」
ヨシオはコーヒーカップを置いた音が響くほど大きく反応した。
「女子高生の部屋で下働きなんてあり得ない」
だが紗月は涼しい顔で続ける。
「考えてみてください。今すぐ住む場所が確保できますよ?」
指がテーブルに描く円は魔法陣のように複雑だった。
(この子は……)
ヨシオは悟る。
花音や柚希とも違う目的を持っている。
単なる慈善でもない。
打算すら超えた何かが紗月の瞳の奥で輝いている。
「それに……」
彼女が文庫本の表紙を軽く押さえた。
「この小説みたいにね?人は自分の殻を破るために誰かの助けが必要なんです」
ページを捲る指先が特定の一節に辿り着く。
『私たちが求めているのは救済ではない。ただ誰かと一緒に落ちていく安心感だ』
「おじさんは孤独を選ぶんですか?それとも新しい家族を作る勇気がありますか?」
紗月の問いかけにヨシオの呼吸が止まる。
今まで考えもしなかった可能性が脳裏を掠めた。
ホームレス暮らしの終焉と引き換えに築かれる奇妙な主従関係。
そこに恋情の余地はあるのか否か—
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