傘の恩
それから1週間雨が続き空き缶拾いもできず、カップ麺を買う金もなく空腹にたえかねていた。
また、栄養失調で風邪もひいており、咳き込みながら駅前の歩道橋の上で物乞いの毎日だった。
空腹で倒れそうと諦めかけたとき、通りかかった、人が、大丈夫ですか?とこえをかけてきた.。
顔を上げると清楚な女子中学生がしゃがんでヨシオに傘をかけてくれた。よく見ると近所の有名私立中学の制服だった。
雨は容赦なく続いた。
コンクリートの歩道橋階段がヨシオの靴底を滑らせる。
七日間の飢餓状態は視界さえ歪ませていた。
「……大丈夫ですか?」
澄んだ声が耳朶を打つ
朦朧とする意識の中で顔を上げると—真っ白なブラウスに紺色のジャンパースカート
襟元には校章バッヂ。
(百合ヶ丘学院……)
地方でも名門と言われる女子校の制服。傘の陰から覗く少女の顔立ちは儚げで雨に濡れた黒髪が頬に張り付いていた。
「どうしました?具合悪いんですか?」
心配げな表情にヨシオの胸が締め付けられる。かつて姪を守れなかった記憶が疼いた。無言で首を振るのが精一杯だ。
「お腹空いてるなら……」
少女は斜めがけバッグから何か取り出す。透明のラッピング袋に入った焼き菓子だ。
「チョコレートマフィンです。お母さんが作ったんだけど……」
遠慮がちな申し出に思わず喉が鳴る。唾液腺が刺激され口内に粘膜が湧き上がる感覚。
「食べてください」
差し出された手には霜焼けのような赤みがあった。おそらく早朝から勉強した指先だろう。その純粋さが逆に辛い。
「ダメだ……こんなもの貰っちゃいけない」
か細い拒絶が雨音に飲み込まれていく。
「でも……」
食い下がる少女の目に涙が浮かんだ。雨水なのか情けなのか分からない滴が頬を伝う。彼女も何かに追い詰められているのだと気づく。
(似てる……あの日の花音さんに)
記憶の底から甦る鮮烈な光景。豪邸の庭で一人佇んでいた十六歳の少女の孤独な背中。同じ世代だからこそ分かる心の隙間がある。
「ありがとう」
差し出された菓子を受け取る手が震えていた。
包装紙を破く音が雨音の中に鮮明に響く。
一口噛めば蜂蜜とチョコレートの甘さが全身に行き渡る。
忘れていた幸福感が脳内で麻薬のように弾ける。
「美味しい……」
少女の顔がぱっと明るくなる。雨の中でも咲く白い椿のような笑顔だ。
「よかった」
ホッと息をついた途端—橋桁が軋む音がした。
傍を通過する大型トレーラーが巻き起こす風圧で傘が煽られる。
「あっ!」
バランスを崩した少女が手摺に倒れ込む。ヨシオの身体が反射的に動き—地面に尻餅をつかせまいと掴んだ肩。
「危ない!」
密着した瞬間—消毒薬の匂いと石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。花音さんと違って純真無垢な青春の香りだ。
「ごめんなさい……」
申し訳なさそうに謝る少女の眼差しには畏怖と憧憬が混在している。
成人男子への羞恥心と老人への哀れみが拮抗した複雑な心理状態だ。
(この子は……何故ここに?)
疑問が浮かぶ間もなく少女は立ち上がる。
鞄から折り畳み傘を取り出して差し出してきた。
「使ってください。学校まではバス停から歩いてすぐなので」
押しつけるように手渡された傘には可愛らしい犬のイラスト。
ヨシオの掌サイズだがしっかりとした作りだ。
「明日……また来るかもしれません」
予期せぬ告白に思考が停止する。
「もしよかったら……明日もここに来てもらえませんか?」
伏し目がちな少女の耳が赤く染まっている。
社交辞令か本心か判別不能な提案だが—
「必ず来る」
断言したのは本能的な防衛本能からだった。
このまま放置したら二度と会えない予感がある。
「約束ね?」
小指を立ててくる仕草が幼児のようで眩しい。
ヨシオは無意識に自らの小指を絡めた。久しく忘れていた誓約の儀式—
「指切りげんまん……」
歌いながら離れていく少女を見送りながらヨシオは思った。
(この娘にも救いが必要なのか……)
答えの出ない疑問符を胸に焼き菓子の残りを味わう。
甘美な味わいの中に微かな塩気を感じたのは雨のせいだけではなかっただろう。




