第8話 魔界のざわめき
魔界は、音がある。
赤黒い空の下、絶えず何かがうごめいている。
その中心、監理塔。
「……揺れた」
黒水晶が震える。
観測官の悪魔が眉をひそめる。
「天界波動を検知」
「場所は?」
「地上、山間部」
映し出される光。
小さい。だが、異質。
「祝福単体ではない」
「制御が混ざっている」
「融合?」
低い笑い声が漏れる。
「そんな器用な真似ができる悪魔がいるか」
沈黙。
やがて記録が照合され、名が浮かぶ。
――セリス。
失格処分し、追放した悪魔。
「……あいつか」
別の悪魔が舌打ちする。
「役立たずが何をしている」
「単独ではない」
「落第天使、ルシエル」
空気がわずかに重くなる。
祝福と制御。
本来、対立するもの。
「排除か?」
「まだだ」
塔の奥から、低い声。
影の中の存在。
「観測を続けろ」
「危険なら潰す」
黒水晶の波が、ゆっくりと広がる。
それは攻撃ではない。
探る波。
それは、地上へと落ちていく。
♦︎♦︎♦︎
その夜、ゆらぎ湯の湯面が、わずかに震えた。
ルシエルが顔を上げる。
「……今、揺れた?」
セリスも同時に振り向く。
「来てる」
「天界?」
「違う」
湯面に映る月が、ゆらりと歪む。
「魔界の観測波」
冷たいが、攻撃ではない。
探るだけの視線。
セリスは静かに息を吐く。
「……やっと来たわね」
恐れはない。
だが、覚悟はいる。
ルシエルが隣に立つ。
「大丈夫?」
「消せる」
「消さなくていい」
ルシエルは湯面を見る。
「揺らそう」
祝福が、静かに混ざる。
セリスの制御が重なる。
ゆらぎ湯が、深く揺れる。
観測波が触れる。
だが、反発も衝突もない。
ただ、丸くなる。
♦︎♦︎♦︎
黒水晶の向こうで、魔界の観測官が目を細める。
「……荒れていない?」
「攻撃性なし」
「歪みなし」
塔の奥の声が低く響く。
「経過観測」
排除はしない。
まだ。
♦︎♦︎♦︎
地上では、湯気が静かに立ちのぼる。
「……通った」
セリスが小さく言う。
「うん」
ルシエルは笑う。
「へへ」
「笑うな」
「だってさ」
湯が揺れる。
天界も魔界も、まだ動かない。
けれど。
両方が、気づいた。
魔界・管理塔。
黒水晶の前に立つ悪魔は、長い外套を翻した。
「……座標、固定」
低い声。観測波が地上をなぞる。
「揺らぎは安定」
「暴走なし」
「排除対象ではない」
周囲の悪魔たちは興味を失いかける。
だが、彼は動かない。
映る波動。
制御の癖。
その揺れ方。
「……セリス」
小さく名を呼ぶ。
記録を照合する。
失格。追放。理由は「制御の甘さ」。
だが、彼は知っている。
甘かったのではない。
優しかったのだ。
「ヴァルクス様」
部下が声をかける。
「経過観測でよろしいかと」
「……ああ」
だが視線は水晶から離れない。
祝福が混ざっている、天界の気配。
「落第天使……か」
小さく吐き捨てる。
感情は見せない。
中間管理職として、淡々と処理する。
だが。
胸の奥が、わずかに軋む。
「……現地確認を行う」
「直々に?」
「任務だ」
嘘ではない。
だがそれだけでもない。
黒い羽が、静かに広がる。
♦︎♦︎♦︎
地上、ゆらぎ湯の夜。
湯面が、また揺れた。
今度は、重い。冷たいが、整っている。
「……来る」
セリスが呟く。その声は、いつもより低い。
「誰?」
ルシエルが顔を上げる。
「……」
答えない。だが湯の外へ出た瞬間、空気が変わった。
囲いの外に立つ影。黒い羽。整った姿。
「久しいな、セリス」
セリスの肩が、ぴくりと揺れた。ほんの一瞬。
それはルシエルにもわかった。
「……ヴァルクス」
名を呼ぶ声が、わずかに硬い。
ヴァルクスは視線を動かし、ルシエルを見る。
「落第天使か」
「いらっしゃいませ?」
いつもの調子。
だがセリスは違う。
目を逸らし、腕を組む。
「監理塔の中間管理職が、何の用?」
「観測だ」
淡々とした答え。
「排除ではない」
「まだ、でしょ」
棘が混じる。
ヴァルクスの視線が、わずかに柔らぐ。
「……変わらないな」
「何が」
「強がるところが」
一瞬、空気が止まる。
ルシエルが二人を見比べる。
距離感が、違う。
過去を知る距離。
「湯に入ります?」
ルシエルが言う。
「ここは、立場関係ないですから」
ヴァルクスはセリスを見る。
セリスは視線を逸らす。
「……入る」
短い答えの後、湯へと足を踏み入れる。
その瞬間。
セリスの指先が、わずかに震えた。
気づいたのは、ルシエルだけ。
湯気が、静かに立ちのぼる。
ヴァルクスは囲いの中に立った。
黒い羽を畳み、淡々と湯へ足を入れる。
波が、触れる。
祝福と制御の混ざり合った揺れ。
だが、彼は表情を変えず、肩まで沈む。
呼吸が一瞬だけ深くなる。
それだけ。
「……興味深い」
理性的な声。
セリスは腕を組んだまま、視線を外す。
「排除対象?」
「違う」
即答だった。
「暴走も歪みもない」
ルシエルが少しだけ胸を張る。
「でしょ?」
「調子に乗るな」
セリスが小さく言う。
ヴァルクスの視線が、セリスへ戻る。
「制御の精度が上がっている」
「……仕事だから」
「違う」
静かな否定。
「お前はいつも、誰かのために力を使っていた」
ルシエルは目を瞬き、セリスの表情は硬くなる。
「……昔の話よ」
「否定はしないな」
湯面が、ゆらりと揺れる。
囲炉裏の前に三人が座る。
火がぱちりと鳴る。
「失格処分は、不当だった」
ヴァルクスが淡々と言う。
セリスの手が止まる。
「今さら?」
「止められなかったのは、私だ」
それは謝罪ではない。
事実の報告のような声。
だが、重い。
ルシエルは二人を見る。
知らない過去。
自分の知らない時間。
胸の奥が、ちくりとする。
「……でも」
ルシエルが口を開く。
「今はここにいる」
ヴァルクスが視線を向ける。
「それで十分だよ」
単純な言葉。
セリスが小さく息を吐く。
「……ほんと、単純」
けれど、火の明かりに照らされた横顔は、やわらかい。
ヴァルクスはその様子を見て、わずかに目を細める。
「……経過観測とする」
立ち上がる。
「天界も既に動いている」
「知ってる」
セリスが短く答える。
「へにゃってなってた」
「……何?」
「なんでもない」
ルシエルが慌てる。
ヴァルクスはわずかに眉を上げる。
「次は私も、より正確に観測しよう」
意味深な言葉を残し、黒い羽が広がる。
雪が舞い、去っていく影を後に静寂が生まれる。
ルシエルがぽつりと言う。
「……なんか、すごい人だったね」
「中間管理職よ」
「そこ?」
「そこ」
少しの沈黙。
ルシエルがそっと聞く。
「好きだったの?」
セリスが凍る。
「なにを」
「いや、なんか距離が」
「違う」
即答。だが耳が赤い。
「……尊敬してただけ」
「ふーん」
「その顔やめなさい」
湯が揺れる。
火が揺れる。
天界と魔界。
両方が、まだ排除を選ばない。
だが、観測は続く。
そして次に来るとき。
理性の悪魔は、きっと、少しだけゆらぐ。
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